八十嶋冨五郎
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八十嶋 冨五郎
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基礎情報 | |
四股名 | 八十嶋 冨五郎 |
本名 | 三輪屋 |
愛称 | 鉄人 |
生年月日 | 1760年 |
没年月日 | 1819年 11月21日(旧暦10月4日) |
出身 |
摂津国 東成郡 (現:大阪府 大阪市東成区) または和泉国 大鳥郡 (現:大阪府堺市) |
身長 | 不明 |
体重 | 不明 |
所属部屋 |
枝川部屋(大坂相撲) →追手風部屋 |
成績 | |
現在の番付 | 引退 |
最高位 | 西前頭3枚目 |
幕内戦歴 | 13勝21敗1分3預1無7休(5場所) |
データ | |
初土俵 | 1796年10月場所(大坂、幕内格付け出し) |
入幕 | 1796年10月場所(大坂) |
引退 | 1819年3月場所 |
備考 | |
2019年6月29日現在 |
八十嶋 冨五郎(やそしま とみごろう、1760年(宝暦10年) - 1819年(文政2年)11月21日(旧暦10月4日))は、摂津国 東成郡(現:大阪府 大阪市 東成区)または和泉国 大鳥郡(現:大阪府堺市)出身の元大相撲 力士 [1] 。本名は三輪屋(みわや)と伝わるが詳細は不明である。
来歴
[編集 ]1760年(宝暦10年)に現在の大阪府で生まれる。生誕地は摂津国または和泉国の説があるが、角界入りは地元の大坂相撲・枝川部屋で1796年10月場所で初土俵(幕内付け出し)を踏んだ。しかし現役時代は三役に昇進することも無く、幕内と十両を往復するエレベーター力士だった。特に1804年(文化元年)3月場所以降は十両の地位に甘んじており、1805年(文化2年)10月場所はさらに負け越し続きだった。
1814年(文化11年)11月場所から1818年(文化15年)2月場所にかけて記録した26連敗は当時のワースト記録[2] [3] だったが、驚異の持久力で「鉄人」と称され、1819年(文政2年)3月場所後の同年10月4日に現役のまま死去、60歳没。明確に記録が残る1757年以降の力士では最年長力士であり、現役死した力士においても最年長[4] だった。
土俵上では豪快だったが、私生活では茶道や俳諧を楽しむ風流人であり、表千家不臼の門下で「東西庵八十嶋」と号した[5] 。
出典
[編集 ][脚注の使い方]
- ^ http://sumodb.sumogames.de/Rikishi.aspx?r=3176&l=j
- ^ 30戦全敗!(ブログ・相撲史に関心・興味のある方どうぞ 2011年1月14日記事)
- ^ この記録には一部に散佚が見られ、不明な箇所も多数存在する。なお、このワースト記録は同場所9日目に四海浪吉五郎が27連敗を記録したことであっさり更新された。
- ^ 最短命の力士は魁士豊(15歳178日、1992年 7月14日に急性心筋梗塞で死去)。
- ^ 角界の ゙鉄人 ゙たち(ブログ・星ヶ嶺、斬られて候 2010年12月8日記事)