コンテンツにスキップ
Wikipedia

伊東長とし

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
(伊東長トシから転送)
この記事は検証可能参考文献や出典が全く示されていないか、不十分です。 出典を追加して記事の信頼性向上にご協力ください。(このテンプレートの使い方)
出典検索?"伊東長とし" – ニュース · 書籍 · スカラー · CiNii · J-STAGE · NDL · dlib.jp · ジャパンサーチ · TWL
(2016年9月)
この項目には、一部のコンピュータや閲覧ソフトで表示できない文字(CJK統合漢字拡張E)が含まれています(詳細)
本来の表記は「伊東長 」です。この記事に付けられたページ名は技術的な制限または記事名の制約により不正確なものとなっています。
 
伊東長𫡰
時代 江戸時代後期 - 明治時代
生誕 天保15年4月13日(1844年 5月29日)
死没 明治33年(1900年)12月21日)
墓所 東京都 文京区向丘の高林寺
官位 従五位下播磨守子爵
幕府 江戸幕府
主君 徳川家茂慶喜明治天皇
備中 岡田藩
氏族 伊東氏
父母 伊東長生、乾氏
伊東長裕
葉室長順
大橋重助娘・千重子
久実 、綾子、晴村
特記
事項
「とし」は「卆(卒の異体字)+(十の下に)百+千」という漢字
(「壽(=寿)」の異体字の一つ)
テンプレートを表示

伊東 長𫡰(いとう ながとし、伊東長とし 。「とし」の表記は下記の特記事項参照)は、備中国 岡田藩10代(最後の)藩主。第8代藩主・伊東長寛の十五男・伊東長生の次男。

略歴

[編集 ]

万延元年(1860年)12月18日、従兄で第9代藩主の長裕が死去したため、その養子となって家督を継いだ。文久元年(1861年)10月1日、将軍徳川家茂に拝謁した。同年12月16日、従五位下・播磨守に叙任した。

慶応4年(1868年)1月23日、上洛し、新政府支持の姿勢を示す。戊辰戦争では岡山藩と共に新政府軍に与して、幕府軍に与した備中松山藩の討伐を担当する。明治2年(1869年)6月23日、版籍奉還により岡田藩知事となる。明治4年(1871年)7月、廃藩置県により藩知事を免官となり、東京に移った。1884年(明治17年)7月8日、子爵を叙爵した[1]

明治33年(1900年)12月21日に死去した。享年57。

系譜

[編集 ]

脚注

[編集 ]
  1. ^ 『官報』第308号、明治17年7月9日。
  2. ^ 『人事興信録 初版』(人事興信所、1903年)p.21
日本の爵位
先代
叙爵
子爵
(岡田)伊東家初代
1884年 - 1900年
次代
伊東久実
伊東氏岡田藩10代藩主 (1860年 - 1871年)

AltStyle によって変換されたページ (->オリジナル) /