ラドスティン・キシシェフ
ラドスティン・キシシェフ
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名前 | |||
本名 |
ラドスティン・プロダノフ・キシシェフ Radostin Prodanov Kishishev | ||
ラテン文字 | Radostin Kishishev | ||
キリル文字 | Радостин Кишишев | ||
基本情報 | |||
国籍 | ブルガリア | ||
生年月日 | (1974年07月30日) 1974年 7月30日(50歳) | ||
出身地 | ブルガス | ||
身長 | 178cm | ||
体重 | 82kg | ||
選手情報 | |||
ポジション | 右SB / DH | ||
利き足 | 右足 | ||
クラブ1 | |||
年 | クラブ | 出場 | (得点) |
1991-1994 | ブルガリアの旗 チェルノモレツ・ブルガス | 52 | (4) |
1994-1997 | ブルガリアの旗 ネフトヒミク・ブルガス | 75 | (6) |
1997-1998 | トルコの旗 ブルサスポル | 20 | (3) |
1998-2000 | ブルガリアの旗 リテックス・ロヴェチ | 45 | (4) |
2000-2007 | イングランドの旗 チャールトン・アスレティック | 179 | (2) |
2007 | →イングランドの旗 リーズ・ユナイテッド (loan) | 10 | (0) |
2007-2008 | イングランドの旗 レスター・シティ | 7 | (0) |
2007-2008 | →イングランドの旗 リーズ・ユナイテッド (loan) | 7 | (0) |
2009-2010 | ブルガリアの旗 リテックス・ロヴェチ | 14 | (1) |
2010-2011 | イングランドの旗 ブライトン | 32 | (0) |
2011-2012 | ブルガリアの旗 チェルノモレツ・ブルガス | 19 | (0) |
代表歴 | |||
1996-2009[1] | ブルガリアの旗 ブルガリア | 83 | (1) |
監督歴 | |||
2012 | ブルガリアの旗 チェルノモレツ・ブルガス (ディレクター) | ||
2014-2015 | ブルガリアの旗 FKヴェレヤ・スタラ・ザゴラ | ||
2015 | ブルガリアの旗 PFCブルガス | ||
2015 | ブルガリアの旗 PFKネフトヒミク・ブルガス | ||
2018-2019 | ブルガリアの旗 FCチェルノモレツ1919ブルガス | ||
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ラドスティン・プロダノフ・キシシェフ(ブルガリア語: Радостин Кишишев, ラテン文字転写: Radostin Prodanov Kishishev, 1974年 7月30日 - )は、ブルガリア・ブルガス出身の元サッカー選手、サッカー指導者。元ブルガリア代表。現役時代のポジションは右サイドバック及び守備的ミッドフィルダー。
経歴
[編集 ]クラブ
[編集 ]ブルガスに生まれたキシシェフは、地元のFCチェルノモレツ・ブルガス (英語版)とPFKネフトヒミク・ブルガスでキャリアを積んだ後でトルコ1部のブルサスポルと契約し、1997-98シーズンにセントラルミッドフィールダーを務めた。その後、母国ブルガリアのリテックス・ロヴェチと契約し、1998年、1999年と国内1部リーグを2連覇した。
チャールトン
[編集 ]2000年夏にイングランド1部昇格組のチャールトン・アスレティックFCと契約。当初は右サイドバックを務めていたがアラン・カービシュリー監督によりミッドフィールダーへと役割変更して以来在籍7季の大半でレギュラーを務め、ハードワークでチームを支えていた。しかし、その一方で時折失点に関与するプレーを見せる場面があった。チャールトンでは合計2得点を挙げ、その得点は2002-03シーズンのウェストハム・ユナイテッドFC戦[2] とエヴァートンFC戦でのものだった[3] 。
- リーズへのローン
2006年を境に出場機会が減少していったため、2007年1月にチャールトンでの最後の試合に出場後、同国2部のリーズ・ユナイテッドAFCへと貸し出された[4] 。初出場を飾ったシェフィールド・ウェンズデイFC戦では2-3と敗北したものの、同試合の最優秀選手に選出される活躍を見せるなど、短期の在籍で奮闘したがクラブを3部降格の危機から防ぐことは出来なかった。シーズン終了後の夏にリーズ側はキシシェフを完全移籍で獲得しようと画策していたが、財政難により補強禁止の措置をとることになったため、この移籍話は消滅した。
レスター
[編集 ]2007年6月に自由移籍で2部のレスター・シティFCと2年契約を締結[5] 。しかし、度重なる監督の交代の中でキシシェフは余剰戦力とみなされ僅か7試合の出場にとどまり、またクラブは同シーズン終了後に3部へと降格した。そのような状態だったが、翌2008-09シーズンは同胞アレクサンダル・タンチェフ(en)の加入もありナイジェル・ピアソン(en)監督は戦力の1人としてキシシェフを残留させ、イアン・ヒューム(en)が着用していた背番号7を与えた。しかし、出番は僅か1試合にとどまったため、2008年12月19日に双方合意で契約解除となった[6] 。
- リーズ復帰
レスターに在籍中の2007-08シーズン途中に再び期限付き移籍でリーズへ加入する[7] ことになったが、負傷に苦しんだために最初の期間のような輝きを放つことはなく、2008年初旬にデニス・ワイズ監督の解任に伴い、キシシェフの契約延長をしないことが決定した。
晩年
[編集 ]- リテックス・ロヴェチ
古巣のリテックス・ロヴェチと契約後はディフェンダーとしての地位を確立し、主将を務めることになった。2009年11月25日のレフスキ・ソフィア戦(アウェイ2-2)でブラジル人選手のゼ・ソアレス(en)と口論後に一発退場をした。
- ブライトン・アンド・ホーヴ・アルビオン
2010年7月16日にトライアルを経てブライトン・アンド・ホーヴ・アルビオンFCと1年契約を締結[8] 。スウィンドン・タウンFCとの開幕戦(2-1勝利)で初出場を飾る。2011年5月に他5名の選手と共にシーズン終了後に伴い、現行の契約が終了するため退団することが発表された[9] 。
- チェルノモレツ・ブルガス
2011年7月、自身のキャリアを終了するために、キャリアを開始したチェルノモレツ・ブルガスと契約。シーズン終了に伴い現役引退を表明した[10] 。2012年11月20日から同クラブのディレクターに就任した[11] 。
代表
[編集 ]ブルガリア代表としてUEFA EURO '96と1998 FIFAワールドカップに出場。2009年9月5日に2010 FIFAワールドカップ・ヨーロッパ予選のモンテネグロ戦(4-1勝利)が代表初得点であった[12] 。
タイトル
[編集 ]- クラブ
- リテックス・ロヴェチ
脚注
[編集 ]- ^ "Radostin Kishishev - International Appearances" (英語). The Rec.Sport.Soccer Statistics Foundation. http://www.rsssf.com/miscellaneous/kishishev-intl.html
- ^ "Charlton add to Hammers misery"
- ^ "Charlton steal Rooney show"
- ^ " Kishishev signs Leeds loan deal"
- ^ "Kishishev seals move to Leicester"
- ^ "Kishishev leaves Leicester"
- ^ "Kishishev back on loan at Leeds"
- ^ "Kishishev lands Seagulls deal"
- ^ "Poyet to release six of Brighton and Hove Albion squad"
- ^ "Кишишиев спира с футбола"
- ^ "Кишишев е новият спортен директор на Черноморец (Бургас)"
- ^ "Bulgaria 4-1 Montenegro: Berbatov Nets As Hosts Overcome Early Scare"
外部リンク
[編集 ]- ラドスティン・キシシェフ - Soccerwayによる個人成績
- transfermarkt
- footballzz
- national-football-teams