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ピピン1世

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
ピピン1世
Pippin I.
アウストラシア 宮宰
ピピン1世の石像
在位 615/23年 - 629年
638/9年 - 639/40年

出生 580年
死去 640年
配偶者 イッタ
子女 グリモアルド1世
ベッガ (ドイツ語版)
ゲルトルート (ドイツ語版)
家名 ピピン家/カロリング家
父親 ユーグ
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ピピン1世(ピピン1せい、ドイツ語:Pippin der Ältere, 580年頃 - 640年)は、カロリング家の祖。「大ピピン」とも呼ばれる。ランデン (英語版)(現・ベルギー フラームス=ブラバント州)出身とされ、「ランデンのピピン」とも。メロヴィング朝フランク王のクロタール2世ダゴベルト1世シギベルト3世の治世にアウストラシア王国宮宰(在職:615あるいは623年 - 629年、638/9年 - 639/40年)を務めた。

生涯

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偽フレデガリウス年代記』によれば父はカールマン(カルロマン)。ランデンとの繋がりは12世紀にブラバントの年代記作者により作り上げられたとの、ゴデフロイド・クルスの研究もある。

ブラバント地域の多くを支配し、ブルンヒルドとの戦いでクロタール2世を推戴した有力者たちの一人であった。アルヌルフと共に王の顧問となり、623年にダゴベルト1世の下でアウストラシア宮宰に任命された。隠居していたが、ダゴベルト1世の死去で再び宮宰職に就き、未亡人で摂政のナンティルドクローヴィス2世シギベルト3世兄弟の間での国庫金・遺産配分を監督した。

妻のイッタ (英語版)メス司教アルノアルド (英語版)の娘で、ピピンとの間に一男二女がいた[1] 。息子のグリモアルド1世(615年頃 - 661年/662年)は、後にアウストラシア 宮宰(在職:650年 - 661年)となった[1] [2] 。二人の娘のうち、ベッガ (ドイツ語版)(生年未詳 - 649年)はアンゼギゼル(メス大司教アルヌルフ の息子)と結婚してピピン2世(中ピピン、カール1世の曾祖父)をもうけた[1] 。またゲルトルート (ドイツ語版)(625年 - 659年 3月17日)はイッタが設立したニヴェル女子修道院の修道院長となり、後に母と共に列聖された。彼女は旅人の守護者とされ、しばしばネズミとともに描かれている[3]

また、ヘント聖バーフ (英語版)も夫妻の子とされる。

ピピンは列聖されてはいないが、いくつかの古い殉教録では聖人として挙げられている。

脚注

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  1. ^ a b c 佐藤、p. 8
  2. ^ グリモアルド1世は後に息子(キルデベルト)をアウストラシア王シギベルト3世の養子とし、王位につけようとしたが失敗し、661/2年に殺害された(柴田 他、p. 150)。
  3. ^ St. Gertrude of Nivelles(2017年12月3日閲覧)

参考文献

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  • 佐藤彰一 『世界史リブレット人29 カール大帝』 山川出版社、2013年
  • 柴田三千雄 他 『世界歴史大系 フランス史 1』 山川出版社、1995年

関連項目

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