ピピン1世
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ピピン1世 Pippin I. | |
---|---|
アウストラシア 宮宰 | |
ピピン1世の石像 | |
在位 |
615/23年 - 629年 638/9年 - 639/40年 |
出生 |
580年頃 |
死去 |
640年 |
配偶者 | イッタ |
子女 |
グリモアルド1世 ベッガ (ドイツ語版) ゲルトルート (ドイツ語版) |
家名 | ピピン家/カロリング家 |
父親 | ユーグ |
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ピピン1世(ピピン1せい、ドイツ語:Pippin der Ältere, 580年頃 - 640年)は、カロリング家の祖。「大ピピン」とも呼ばれる。ランデン (英語版)(現・ベルギー フラームス=ブラバント州)出身とされ、「ランデンのピピン」とも。メロヴィング朝フランク王のクロタール2世、ダゴベルト1世、シギベルト3世の治世にアウストラシア王国の宮宰(在職:615あるいは623年 - 629年、638/9年 - 639/40年)を務めた。
生涯
[編集 ]『偽フレデガリウス年代記』によれば父はカールマン(カルロマン)。ランデンとの繋がりは12世紀にブラバントの年代記作者により作り上げられたとの、ゴデフロイド・クルスの研究もある。
ブラバント地域の多くを支配し、ブルンヒルドとの戦いでクロタール2世を推戴した有力者たちの一人であった。アルヌルフと共に王の顧問となり、623年にダゴベルト1世の下でアウストラシア宮宰に任命された。隠居していたが、ダゴベルト1世の死去で再び宮宰職に就き、未亡人で摂政のナンティルドとクローヴィス2世・シギベルト3世兄弟の間での国庫金・遺産配分を監督した。
妻のイッタ (英語版)はメス司教アルノアルド (英語版)の娘で、ピピンとの間に一男二女がいた[1] 。息子のグリモアルド1世(615年頃 - 661年/662年)は、後にアウストラシア 宮宰(在職:650年 - 661年)となった[1] [2] 。二人の娘のうち、ベッガ (ドイツ語版)(生年未詳 - 649年)はアンゼギゼル(メス大司教アルヌルフ の息子)と結婚してピピン2世(中ピピン、カール1世の曾祖父)をもうけた[1] 。またゲルトルート (ドイツ語版)(625年 - 659年 3月17日)はイッタが設立したニヴェル女子修道院の修道院長となり、後に母と共に列聖された。彼女は旅人の守護者とされ、しばしばネズミとともに描かれている[3] 。
ピピンは列聖されてはいないが、いくつかの古い殉教録では聖人として挙げられている。
脚注
[編集 ]参考文献
[編集 ]- 佐藤彰一 『世界史リブレット人29 カール大帝』 山川出版社、2013年
- 柴田三千雄 他 『世界歴史大系 フランス史 1』 山川出版社、1995年
関連項目
[編集 ]この項目は、ヨーロッパの歴史に関連した書きかけの項目 です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:歴史/P:歴史学/P:ヨーロッパ/PJ歴史/PJ:ヨーロッパ)。