セルゲイ・アレクサンドロヴィチ
セルゲイ・アレクサンドロヴィチ Сергей Александрович | |
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ホルシュタイン=ゴットルプ=ロマノフ家 | |
セルゲイ大公の肖像画 | |
称号 | ロシア大公 |
敬称 | 殿下 |
出生 |
(1857年05月11日) 1857年 5月11日 ロシア帝国の旗 ロシア帝国、 サンクトペテルブルク、ツァールスコエ・セロー |
死去 |
(1905年02月17日) 1905年 2月17日(47歳没) ロシア帝国の旗 ロシア帝国、 モスクワ |
埋葬 |
ロシア帝国の旗 ロシア帝国、 モスクワ、チュドフ修道院 1995年(改葬) ロシアの旗 ロシア、モスクワ、ノヴォスパスキー修道院 |
配偶者 | エリザヴェータ・フョードロヴナ |
父親 | アレクサンドル2世 |
母親 | マリア・アレクサンドロヴナ |
役職 |
国家評議員 (1894年 - 1905年) モスクワ総督 (1891年 - 1905年) 陸軍 中将 |
宗教 | キリスト教 ロシア正教会 |
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称号:大公 | |
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敬称 |
殿下 His Imperial Highness |
セルゲイ・アレクサンドロヴィチ(ロシア語: Сергей Александрович, ラテン文字転写: Sergei Alexandrovich, 1857年 5月11日 - 1905年 2月17日)はロシアの皇族、陸軍 軍人、政治家。アレクサンドル2世の五男で、ロシア大公。国家評議員(1894年 - 1905年)、モスクワ総督(1891年 - 1905年)などの役職を歴任。ドミトリー大公の伯父で育ての親でもある。
生涯
[編集 ]アレクサンドル2世とマリア・アレクサンドロヴナの五男としてツァールスコエ・セローに生まれる。
セルゲイの幼少期は、弟パーヴェルや姉と、クリミアにある一家の保養地リヴァディア、ツァールスコエ・セロー、サンクトペテルブルクの冬宮殿で過ごした。セルゲイの母親マリアの健康状態が悪化し、ロシアの厳しい気候を避けなければならなくなると、一家はダルムシュタット郊外のユーゲンハイムや南フランスで冬を過ごすようになった[1] 。そこで家族の悲劇が彼らを襲った。 セルゲイが8歳の誕生日を迎える直前の1865年4月、長兄で名付け親でもあった王位継承者で皇太子のニコライが軍事演出中の事故が原因で、ニースで亡くなった[2] 。セルゲイは子供の頃、内気で勉強好きで引っ込み思案であり、控えめな性格が似ていた母の影響で、彼は非常に信心深くなった。
1870年代から、セルゲイと弟パーヴェルはロシアで勉学に励んだ。彼ら皇族は、軍人の道を歩むのが一般的であったが、家庭教師のアルセーニエフ提督は、セルゲイの言語的、芸術的、音楽的能力を奨励した。セルゲイはいくつかの言語に堪能で、ダンテを原書で読むためにイタリア語を学んだ[3] 。セルゲイは絵をよく描き、フルートを演奏するなど、音楽にも親しんだ。また、セルゲイは演技を楽しみ、ロシアの初期の歴史、文化、伝統に親しんだ。読書も好きで、やがてロシアの多くの偉大な作家を知るようになり、中でもトルストイやドストエフスキーを愛読していた[4] 。
1880年から1881年にかけて、イタリアを旅行した。 1881年5月21日から31日にかけて、弟のパーヴェル大公、従兄弟のコンスタンチン・コンスタンチノヴィッチとともに聖地を巡礼し、パレスチナにおけるロシア霊性宣教団の団長であったアントニン大神父(カプースチン)と親しくなった。 アントニン神父の発案で、兄のアレクサンドル3世とともに、亡き母マリア・アレクサンドロヴナ皇后を記念して、エルサレムのゲッセマネに教会を建立した。 1888年にも妻エリザヴェータとともにエルサレムを訪れ、神殿の奉献式に参加した。
1884年、従兄ヘッセン大公 ルートヴィヒ4世の次女エリーザベト・アレクサンドラと結婚した。
軍歴
[編集 ]1857年4月29日の誕生日に、セルゲイ大公はプレオブラジェンスキー近衛擲弾兵連隊の第1大隊に中尉として入隊した。1872年7月5日には大尉に、1874年1月11日には少佐に昇進した。大公は、当初は軍務に無関心であった。彼は元々船乗りになることを夢見ていたが、母親の強い希望で海軍の道を断念した。しかし、18〜19歳の頃に義務感に目覚め、軍務に興味を示し始めた。1876年からは連隊の中隊長を務めた。1876年8月10日には中佐に昇進し、8月30日には幕僚長に昇進した。1877年4月28日には大佐に昇進した[5] 。
1877年から露土戦争に参加。ブルガリアのコシェボ村での偵察での功績により、聖ゲオルギー勲章4等を授与された。
モスクワ総督
[編集 ]1894年12月より国家評議会議員に任命される。1887年2月にプレオブラジェンスキー連隊の大隊長に就任。兄アレクサンドル3世の命でモスクワ総督(現在のモスクワ市長)に就任。同時に1896年5月からモスクワ軍管区長となり、中将に昇進。しかし、大公はプレオブラジェンスキー連隊の指揮官として留まることを望んでおり、大公夫妻はサンクトペテルブルクでの静かな生活を気に入っていた。大公はモスクワ総督任命には不本意ながら承諾した。
セルゲイ大公は、反動的で知られ、義弟でもある甥ニコライ2世に影響を与えており、強力な国家主義的な政治に対する兄の譲れない信念を共有していた[6] 。モスクワでの反動政治は、内務大臣イワン・ドゥルノヴォが、職人、小商人などの社会的地位の低いユダヤ人をモスクワから追放するという皇帝指令を発表したことから始まった。モスクワのユダヤ人たちは、過越の祭りの初日である3月29日に法令の内容を知った[6] 。その後12ヶ月間にわたり、慎重に計画された3つの段階を経て、彼らはモスクワから追放された。最初に追放されたのは、未婚の者、子供のいない者、モスクワに住んで3年未満の者であり[6] 、次に追放されたのは、職見習い、4人までの子供のいる家族、居住期間が6年未満の者の番であった[6] 。最後に追放されたのは、大家族及び多数の従業員を持つ旧ユダヤ人入植者の番であり、その中にはモスクワに40年間住んでいた者もいた[6] 。また、若いユダヤ人女性は、モスクワに留まりたければ、売春婦としての生活を余儀なくされた。
ユダヤ人追放の間、真夜中に騎兵コサックに家々が取り囲まれ、警官が家々を物色した。1892年1月、氷点下30度の気温の中、ブレスト駅は老若男女を問わずユダヤ人でごった返しており、彼らはボロ布をまとい、わずかな家財道具を保持していた。そのうちの何人かはロシア南部や西部に移動したが、移住を決意した者も多かった[7] 。この一連のユダヤ人追放の代償は凄まじいものであり、モスクワは貿易と生産で1億ルーブルを失い、ユダヤ人企業に雇用されていた25,000人のロシア人が生活の糧を失い、モスクワで最も儲かる産業の一つであった絹織物の製造は壊滅に等しかった[8] 。
セルゲイ大公は市内に新しい寮の建設を開始するよう命じた。しかし同時に、テロ防止と革命思想の排除という国家の政策の一環として、大学の学生や教授に対して厳しい制限が課された[9] 。このため、モスクワではセルゲイ大公は知識人の間で非常に不評であり、保守的な帝政支持者の市民は彼を歓迎した[9] 。しかし、抑圧策の一方、彼は在任中、一般的な生活環境を大幅に改善し、職務を遂行する上で極めて良心的であったという。彼は細部にまで気を配り、部下に任せれば簡単に済むような事柄にも、個人的に立ち会い、特に、汚職や不正に対しては、徹底した態度を見せた。プライベートでは、妻と一緒にモスクワとその周辺の田舎に見られる貧困を憂慮し、その改善策を話し合っていた[10] 。
福祉団体や慈善事業は常にセルゲイ大公の関心を集め、彼は多くの団体の会長や後援者になった。 例えば、モスクワ盲児養育教育協会、ホームレス・放置児・受刑青少年協会、ロシア国民健康保護協会モスクワ支部などの会長を務めた。さらに、モスクワ大学とサンクトペテルブルク大学、印刷業者共済基金、高齢俳優介護協会など、さまざまな組織の後援者でもあった。また、芸術科学アカデミー、モスクワ考古学協会、農業協会、ロシア音楽協会、モスクワ歴史博物館、モスクワ神学アカデミーなどの会長も務めた。
ホディンカの惨劇
[編集 ]1894年11月1日(ユリウス暦10月20日)アレクサンドル3世が死去し、息子のニコライ2世が皇帝に即位した。
新皇帝夫妻の戴冠式は伝統に従ってモスクワで行われ、セルゲイはモスクワ総督として、式の準備を監督した。その準備の一環として、セルゲイはモスクワに電灯を導入した。祝典の終わりには、慣例に従って、新しく戴冠した皇帝は皆、民衆に贈り物を贈った。モスクワ郊外のホディンスコエ・ポレ (ロシア語版)は、アレクサンドル2世の戴冠式以来、贈り物が配布された場所である。普段は軍事訓練場として使われており、たくさんの溝があり、その選択に、多くの疑問が寄せられた。それでもセルゲイは、総督としてこの計画を承認した。ロシア全土から50万人近い観衆が集まることが予想されたが、秩序を維持するために派遣されたのは、コサックの1個中隊と警察の小部隊だけだった。
1896年5月30日(ユリウス暦5月18日)の早朝、ビールを積んだ荷車と、熱烈に求める土産物を眺めながら、野原を守るか弱い木製のフェンスの外に群衆が集まり始めた。午前6時頃、贈り物が配られているという噂が、大群衆の間を駆け巡った。突然、人々が密集し、その大群がブースの方向へ押し寄せ始めた。その結果、何百人もの男、女、子供たちが、ドミノ倒しとなり、何が起こっているのか分からず、凹凸の地面で転んだり滑ったりして、足元で押しつぶされたり踏みつけられたりした。騒乱の中で窒息死する者もいた。警察は何もできず、到着したコサックも大惨事を止めることはできなかった。千三百人が殺され、その多くが無残な姿で発見された。ホディンカの惨劇 (ロシア語版)である。
セルゲイ大公は今回の件に直接関与していなかったが、先見の明がなかったとして非難され、総督としての責任を負わされた。しかし、大公は悲劇の責任の一端を負うことはなく、特に、戴冠式祝典の運営をめぐって対立していた宮廷大臣のイラリオン・ヴォロンツォフ=ダシュコフ (ロシア語版)将軍や、モスクワ市警察長官アレクサンドル・ヴラソフスキー (ロシア語版)大佐に責任を負わせた。世論の目には、セルゲイは事件現場に行かず、少なくとも犠牲者の葬儀に姿を見せなかったことで、大きな損害を被ったと映ったが、セルゲイはこの惨事を深く悲しんでいたとも伝えられている。
悲劇の後、アレクサンドル3世の従兄弟にあたる、ニコライ・ミハイロヴィチ大公とその兄弟を筆頭とするロマノフ家の多くの皇族たちは、残された祝祭を中止すべきだと考えた。 一方、セルゲイ大公とその兄弟たちは、戴冠式のような歴史的行事を中断したり、目立った喪に服したりすべきではないと考えていた。後者の意見では、遠路はるばるやってきた観衆を失望させるべきではなく、また、外国の要人のために予定されていた緊密な行事を軽んじることなく進めるべきだというものだった。また、セルゲイ大公が辞任すべきかどうかについても、ロマノフ家の間で意見が分かれた。ニコライ・ミハイロヴィチ大公とその兄弟たちは、セルゲイの辞任を求めたが、セルゲイの実の兄弟であるウラジーミル大公とアレクセイ大公 (ロシア語版)はセルゲイを支持し、彼がホディンカの惨事のスケープゴートにされるのであれば、公の場から引退すると脅した[11] 。最終的にセルゲイは辞任を申し出たが、ヴォロンツォフ=ダシュコフは宮廷大臣を辞任しなかった。結局、ニコライ2世は調査案を支持せず、ヴラソフスキーは警察長官から解任され、セルゲイはその職を維持した。
暗殺
[編集 ]1904年末には、ロシアは日露戦争で大打撃を受け、国内は混乱していた。不満とデモが増大するにつれて、秩序を維持するようセルゲイにかかる圧力も増大した。しかし、内乱は収まることなく、セルゲイは13年間勤めた後、1905年1月1日に総督を辞任し、ドミトリー・トレポフ将軍が後任となった。しかし、彼はモスクワ軍管区司令官には続投した[12] 。
1905年2月15日、セルゲイ大公一家はボリショイ劇場で妻エリザヴェータの赤十字戦争慈善事業のためのコンサートに出席した[13] 。彼のルートを知っていたエスエルのテロリストで、詩人でもあったイヴァン・カリャーエフ (ロシア語版)は、馬車の中の子供たちに気づき、攻撃を中止することにした。2月17日、ニコライ宮殿で妻と昼食をとった後、セルゲイは総督官邸に向けて一人で出発した[14] 。暗殺の脅威が迫っていたため、セルゲイは自身の副官アレクセイが結婚して父親であることを理由に彼の同行を拒否していた。一対の馬に引かれ、御者のアンドレイ・ルディンキンが運転する馬車の到着は、新聞紙に包まれた爆弾を持ってクレムリンで待機していたテロリストを警戒させた[15] 。
14時45分前、大公の馬車はクレムリンのニコルスカヤ塔の門をくぐり、チュードフ修道院 (ロシア語版)の角を曲がってセナツカヤ広場に入った。近距離から、ニコルスキー門の内側18メートルの地点で、カリャーエフは一歩前に進み、セルゲイの膝に直接爆弾を投げつけた[16] 。爆発は馬車を崩壊させ、大公は即死した[16] [17] 。大公の遺体は切断され、頭部、胸の上部、左肩と腕が吹き飛ばされ、完全に原型をとどめていなかった[18] 。大公の指輪がついたままの指が、近くの建物の屋上で発見された[16] [19] 。
衝撃で馬車の馬は、ニコルスキー門に向かって飛び出し、前輪と馬車を引きずり、運転手のルディンキンも意識不明の大やけどを負った。彼は近くの病院に運ばれたが、3日後に死亡した[20] 。カリャーエフは生き延び、直ちに逮捕され、死刑を宣告され、2ヵ月後に絞首刑に処された。エリザヴェータは爆発現場に急行し、茫然としながらも完璧に統制をとり、指示を出し、雪の中に膝をついてセルゲイの遺体を拾い集めるのを手伝った[20] 。遺体は担架に乗せられ、軍服で覆われた[20] 。
この暗殺事件は、ロシア革命に少なからず影響を与えたといわれる。
人物
[編集 ]26歳の色白の大公は控えめで知的、読書家であった。身長180センチを超える非常にスリムな体型は、プロイセン将校のようにコルセットを着用することで強調されていた。
刈り上げの髪に端正な髭を蓄えたセルゲイ大公は、印象的な人物であった[21] 。マールバラ公爵夫人のコンスエロ・ヴァンダービルトがモスクワで、彼に会ったとき、彼女は彼を「私がこれまで見た中で最もハンサムな男性のひとり」と評した[22] 。義弟のヘッセン大公エルンスト・ルートヴィヒは、「背が高く色白で、繊細な顔立ちと美しい薄緑色の瞳を持つ」と評した[23] 。非常に自意識過剰で、常に硬い表情であった。
骨関節結核を患っていたため[24] 、彼の健康は著しく損なわれていた。彼は自分の感情を厳格に抑えており、その控えめさをプライドと勘違いする者も多かった。彼は教会を信奉することで知られ、ロシアの骨董品や美術品に深い関心を持ち、考古学、音楽、演技に興味を持ち、考古学会議の議長を務めることもあった。
内気で控えめな性格でありながら、ファッショナブルな社交界や、そのいい加減なやり方に否定的であることを公言し、あらゆる批判に反抗した。 彼は反対意見に反論する事が苦手で、すぐに感情的になってしまう。セルゲイは謎めいた性格で、きつい物言いをするため、傲慢で不愉快な人物に見えた。もともと内気な性格で、握手を求められると、彼は常時白い手袋をはめていた。彼は自分にも他人にも決して安らいでいるようには見えなかった。家庭においては、整理整頓、秩序、規律を求め、それに従うことを求めた。姪のルーマニア王妃マリアは彼のことを、「ドライで、神経質で、口数が少なく、せっかちで、3人の兄のような無頓着なユーモアはまったくなかった。」と語っている。
メモ
[編集 ]- 大佛次郎の短編『詩人』はセルゲイ大公の暗殺事件を題材にした作品である。
脚注
[編集 ]- ^ Warwick, Ella: Princess, Saint & Martyr, p. 86
- ^ Warwick, Ella: Princess, Saint & Martyr, p. 87
- ^ Warwick, Ella: Princess, Saint & Martyr, p. 89
- ^ Miller, Grand Duke Serge Alexandrovich, p. 134
- ^ Вяткин В. В. Военная карьера великого князя. // Военно-исторический журнал. — 2009. — No 12.
- ^ a b c d e Warwick, Ella: Princess, Saint & Martyr, p. 164
- ^ Полян П.М. Не по своей воле/Polyan P. Not by the free will, p. 26
- ^ Warwick, Ella: Princess, Saint & Martyr, p. 165
- ^ a b Van der Kiste, The Romanovs 1818–1959, p. 137
- ^ Zeepvat, Romanov Autumn, p. 129
- ^ Warwick, Ella: Princess, Saint & Martyr, p. 190
- ^ Van der Kiste, The Romanovs 1818–1959, p. 172
- ^ Maylunas & Mironenko, A Lifelong Passion, p. 258.
- ^ Warwick, Ella: Princess, Saint & Martyr, p. 217.
- ^ Maylunas & Mironenko, A Lifelong Passion, p. 259.
- ^ a b c Lincoln, The Romanovs, p. 651.
- ^ 中野京子『名画で読み解く ロマノフ家12の物語』光文社、2014年、202頁。ISBN 978-4-334-03811-3。
- ^ Maylunas & Mironenko, A Lifelong Passion, p. 260.
- ^ Warwick, Ella: Princess, Saint & Martyr, p. 218.
- ^ a b c Warwick, Ella: Princess, Saint & Martyr, p. 219.
- ^ Warwick, Ella: Princess, Saint & Martyr, p. 99
- ^ Balsan, Consuelo Vanderbilt (2011). The Glitter and the Gold. Hodder. p. 139. ISBN 978-1-444-73098-2
- ^ Balsan, Consuelo Vanderbilt (2011). The Glitter and the Gold. Hodder. p. 139. ISBN 978-1-444-73098-2
- ^ Mikhailova, Elizabeth & Sergei, p. 83
関連項目
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