クィントゥス・アエリウス・パエトゥス
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クィントゥス・アエリウス・パエトゥス Q. Ailius P. f. Q. n. Paetus | |
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出生 | 不明 |
死没 | 不明 |
出身階級 | プレブス |
氏族 | アエリウス氏族 |
官職 |
護民官 (紀元前177年) 法務官 (紀元前170年) 執政官 (紀元前167年) |
指揮した戦争 | 対リグリア戦争 |
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クィントゥス・アエリウス・パエトゥス(Quintus Aelius Paetus、生没年不詳)は、紀元前2世紀初頭の共和政ローマの政治家・軍人。紀元前167年に執政官(コンスル)を務めた。
出自
[編集 ]パエトゥスはプレブス(平民)であるアエリウス氏族の出身。氏族最初の執政官は紀元前337年のプブリウス・アエリウス・パエトゥスであった[1] 。カピトリヌスのファスティによれば、父のプラエノーメン(第一名、個人名)はプブリウス、祖父はクィントゥスである[2] 。祖父クィントゥスは神祇官を務めており、紀元前217年の執政官選挙に立候補したが落選、紀元前216年のカンナエの戦いで戦死した[3] 。父プブリウスは紀元前201年の執政官である。また、紀元前198年の執政官セクストゥス・アエリウス・パエトゥス・カトゥスは叔父である[4] 。
経歴
[編集 ]パエトゥスは、おそらく紀元前177年に護民官を務めた[5] 。紀元前174年に父プブリウスが疫病で死去すると、終身制の公職であるアウグル(鳥占官)に就任した[6] 。紀元前170年にはプラエトル(法務官)に就任している[5] 。
パエトゥスの政治歴の頂点は紀元前167年に執政官に就任したことで、同僚執政官はマルクス・ユニウス・ペンヌスで、ペンヌスもまたプレブスであった[7] 。パエトゥスの管轄地域はガリア・キサルピナであった。両執政官ともリグリアで戦う必要があったが、勝利を得ることはできなかった[8] 。
パエトゥスのその後に関しては不明である。
脚注
[編集 ]参考資料
[編集 ]古代の資料
[編集 ]- カピトリヌスのファスティ
- ティトゥス・リウィウス『ローマ建国史』
研究書
[編集 ]- Klebs E. "Aelius 104" // Paulys Realencyclopädie der classischen Altertumswissenschaft. - 1893. - Bd. I, 1. - Kol. 526f
- Münzer F. "Aelius" // Paulys Realencyclopädie der classischen Altertumswissenschaft. - 1893. - Bd. I, 1. - Kol. 489.
- Münzer F. "Aelius 101" // Paulys Realencyclopädie der classischen Altertumswissenschaft. - 1893. - Bd. I, 1. - Kol. 526.
- Münzer F. "Aelius 103" // Paulys Realencyclopädie der classischen Altertumswissenschaft. - 1893. - Bd. I, 1. - Kol. 526-527.
- Münzer F. "Aelius 105" // Paulys Realencyclopädie der classischen Altertumswissenschaft. - 1893. - Bd. I, 1. - Kol. 527.
関連項目
[編集 ]公職 | ||
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先代 ルキウス・アエミリウス・パウルス・マケドニクス II ガイウス・リキニウス・クラッスス |
執政官 同僚:マルクス・ユニウス・ペンヌス 紀元前167年 |
次代 ガイウス・スルピキウス・ガッルス マルクス・クラウディウス・マルケッルス |