エルプラド
エルプラド | |
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ロバート・サングスターの勝負服 | |
欧字表記 | El Prado |
品種 | サラブレッド |
性別 | 牡 |
毛色 | 芦毛 |
生誕 | 1989年 |
死没 | 2009年 9月21日 |
父 | Sadler's Wells |
母 | Lady Capulet |
生国 | アイルランドの旗 アイルランド |
生産者 | Lyonstown Stud |
馬主 | Robert E.Sangster |
調教師 | Michael Vincent O'Brien |
競走成績 | |
生涯成績 | 9戦4勝 |
獲得賞金 | 141,245ポンド |
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エルプラド (El Prado) とはアイルランドの競走馬、種牡馬である。1991年アイルランドの最優秀2歳牡馬。現役時代ではおもに名手レスター・ピゴットが騎手を務めた。
戦跡
[編集 ]デビュー戦を2馬身半差で快勝すると、続くレイルウェイステークスで重賞初制覇。次走アングルシーステークスでは後のアイリッシュダービー勝ち馬セントジョヴァイトの2着と初敗戦を喫してしまうが、続くナショナルステークスでは後続に半馬身差をつけG1初勝利をあげた。しかし、続くハイフライヤーステークスで12着と惨敗、巻き返しを図ったベレスフォードステークスは勝利したものの、翌年は3戦して5着、7着、10着と勝つことはおろか、上位に来ることさえ儘ならなかった。結局ジャック・ル・マロワ賞10着を最後に引退、種牡馬入りした。
年度別競走成績
[編集 ]- 1991年(6戦4勝) - ナショナルステークス (G1) 、ベレスフォードステークス (G2) 、レイルウェイステークス (G3)
- 1992年(3戦0勝)
種牡馬入り後
[編集 ]引退後はアメリカ合衆国のエアドリースタッドで種牡馬になり、後にアデナスプリングスに移動した。多数の重賞勝ち馬を輩出し、2002年にはアメリカのリーディングサイアーに輝いている。2009年に心臓麻痺で死亡した。
代表産駒
[編集 ]※(注記)アルファベット順、競走名は全てG1
- アーティーシラー/Artie SChiller - ブリーダーズカップ・マイル
- アシシェンプレ/Asi Siempre - スピンスターステークス
- ボレゴ/Borrego - パシフィッククラシックステークス、ジョッキークラブゴールドカップステークス
- キトゥンズジョイ/Kitten's Joy - ジョーハーシュ・ターフクラシック招待、セクレタリアトステークス
- メダグリアドーロ/ Medaglia d’Oro - トラヴァーズステークス、ホイットニーハンデキャップ、ドンハンデキャップ
- パディオプラド/Paddy O'Prado - セクレタリアトステークス
- スパニッシュムーン/Spanish Moon - サンクルー大賞
- ウィンターメモリーズ/Winter Memories - ガーデンシティステークス、ダイアナステークス
サドラーズウェルズの血
[編集 ]本馬は父サドラーズウェルズの後継種牡馬として、初めて北米に輸入された。父サドラーズウェルズは欧州の大種牡馬であるが、欧州競馬は芝競走主体の為、ダート競走主体のアメリカ競馬では、その血は敬遠されがちだった。また、欧州では重厚な芝コースであり、比較的軽い芝コースを用いるアメリカでは適応性に欠けることが予想され、これもまたアメリカでのサドラーズウェルズ敬遠の一因になっていると考えられる。
実際、本馬が死亡した際に、アデナスプリングスのダーモット・カーティーは「エルプラドは単なる芝馬としか見ておらず、サドラーズウェルズの血を欲しがる者はアメリカでは誰もいなかった。サドラーズウェルズ産駒を買うのはギャンブルだった。」と述懐している[1] 。
しかし、前述の通りアメリカのリーディングサイアーに輝くなど、このような評価を見事に覆し、父サドラーズウェルズの優秀さをアメリカにも認知させた。また、後継種牡馬のキトゥンズジョイは2013年に父子2代となるアメリカリーディングサイヤーとなり、メダグリアドーロも年度代表馬のレイチェルアレクサンドラを出すなど成功し、その血を広めている。
血統表
[編集 ]- 母レディキャプレットはアイリッシュ1000ギニーをデビュー戦で制した馬。近親にドローン(ダンシングブレーヴの母父)、ノートブック(ウェルアームドの母父)がいる。
参考
[編集 ]外部リンク
[編集 ]- 競走馬成績と情報 netkeiba、JBISサーチ、Racing Post