エクトル・ラウル・クーペル
- العربية
- مصرى
- Asturianu
- تۆرکجه
- Български
- Català
- Čeština
- Deutsch
- Ελληνικά
- English
- Español
- فارسی
- Suomi
- Français
- Galego
- עברית
- Hrvatski
- Bahasa Indonesia
- Italiano
- ქართული
- Қазақша
- 한국어
- Latviešu
- Malagasy
- Nederlands
- Norsk bokmål
- Polski
- Português
- Română
- Русский
- Simple English
- Тоҷикӣ
- Türkçe
- Українська
- Oʻzbekcha / ўзбекча
- Tiếng Việt
- 中文
エクトル・クーペル
| |||
---|---|---|---|
2018年のクーペル | |||
名前 | |||
本名 |
エクトル・ラウル・クーペル Héctor Raul Cúper | ||
ラテン文字 | Héctor Cúper | ||
基本情報 | |||
国籍 | アルゼンチンの旗 アルゼンチン | ||
生年月日 | (1955年11月16日) 1955年 11月16日(68歳) | ||
出身地 | チャバス | ||
身長 | 182cm | ||
体重 | 74kg | ||
選手情報 | |||
ポジション | DF | ||
クラブ1 | |||
年 | クラブ | 出場 | (得点) |
1976-1977 | アルゼンチンの旗 フェロカリル・オエステ | 5 | (0) |
1977-1978 | アルゼンチンの旗 インデペンディエンテ・リバダビア | 6 | (2) |
1978-1988 | アルゼンチンの旗 フェロカリル・オエステ | 424 | (24) |
1988-1992 | アルゼンチンの旗 ウラカン | 132 | (8) |
通算 | 567 | (34) | |
代表歴 | |||
1984 | アルゼンチンの旗 アルゼンチン | 3 | (0) |
監督歴 | |||
1993-1995 | アルゼンチンの旗 ウラカン | ||
1995-1997 | アルゼンチンの旗 ラヌース | ||
1997-1999 | スペインの旗 マジョルカ | ||
1999-2001 | スペインの旗 バレンシア | ||
2001-2003 | イタリアの旗 インテル・ミラノ | ||
2004-2006 | スペインの旗 マジョルカ | ||
2007 | スペインの旗 ベティス | ||
2008 | イタリアの旗 パルマ | ||
2008-2009 | ジョージア (国)の旗 グルジア代表 | ||
2009-2011 | ギリシャの旗 アリス | ||
2011 | スペインの旗 ラシン・サンタンデール | ||
2011-2013 | トルコの旗 オルドゥスポル | ||
2013-2014 | アラブ首長国連邦の旗 アル・ワスル | ||
2015-2018 | エジプトの旗 エジプト代表 | ||
2018-2019 | ウズベキスタンの旗 ウズベキスタン代表 | ||
2021-2022 | コンゴ民主共和国の旗 コンゴ民主共和国代表 | ||
2023-2024 | シリアの旗 シリア代表 | ||
1. 国内リーグ戦に限る。 ■しかくテンプレート(■しかくノート ■しかく解説)■しかくサッカー選手pj |
エクトル・ラウル・クーペル(Héctor Raul Cúper、1955年 11月16日 - )は、アルゼンチン・サンタフェ州出身の元サッカー選手、現サッカー指導者。現役時代のポジションはDF(センターバック)。アルゼンチン代表であった。
経歴
[編集 ]選手時代
[編集 ]アルゼンチン・リーグのフェロカリル・オエステ、インデペンディエンテ・リバダビアそしてCAウラカンの3つのチームでプレーし、アルゼンチン代表としても5試合に出場した。
指導者時代
[編集 ]アルゼンチン時代
[編集 ]現役引退から1年半後、CAウラカンの監督に就任して指導者としての経歴をスタートさせ、CAウラカンを3年率いた。1995年にはCAラヌース監督に就任し、1996年にはコパCONMEBOL優勝を果たした。
スペインでの成功
[編集 ]1997年に海を渡り、スペイン・リーガ・エスパニョーラのRCDマヨルカ監督に就任した。就任初年度の1997-98シーズンにはプリメーラ・ディビシオン(1部)に昇格したばかりのRCDマヨルカをリーグ5位に押し上げ、コパ・デル・レイでは決勝に導いた(FCバルセロナに敗れて準優勝に終わった)。1998年夏に行われたスーペルコパ・デ・エスパーニャではFCバルセロナに雪辱を遂げて優勝した。1998-99シーズンにはUEFAカップウィナーズカップに出場し、準決勝ではスコットランドのハート・オブ・ミドロシアンFCを破って決勝に進出したが、決勝でイタリアのSSラツィオに敗れた。同シーズンのリーグ戦ではリーグ最小失点の堅い守備の下、FCバルセロナとレアル・マドリードに次ぐクラブ史上最高の3位に躍進し、翌シーズンのUEFAチャンピオンズリーグ出場権を獲得した。
1999年夏にはバレンシアCF監督に就任し、堅守を基調としてサイドからのダイナミックなカウンターアタックを武器に、1999-2000シーズンと2000-01シーズンの2シーズン連続でUEFAチャンピオンズリーグの決勝に進出した。しかし、初年度は同じスペインのレアル・マドリードに、2年目はドイツのバイエルン・ミュンヘンに敗れ、RCDマヨルカ時代から続く決勝の壁を跳ね返せなかった。
インテル
[編集 ]2001年には低迷していたイタリア・セリエAのインテル監督に就任し、2001-02シーズンのリーグ戦は3位、2002-03シーズンのリーグ戦は2位とまずまずの成績を残した。試合中にピッチ上でタバコを吸いながら指揮をしている。2002-03シーズンのUEFAチャンピオンズリーグでは準決勝に進出したが、ライバルのACミランにアウェーゴール差で敗れてベスト4に終わった。2003-04シーズンは6節終了時に8位と期待を裏切り、成績不振により解任された。
スペイン再挑戦
[編集 ]契約に関してインテルと揉め、解任から1年間はどのクラブも率いなかったが、2004-05シーズン途中に再びRCDマヨルカ監督に就任した。シーズン開幕から10試合を終え、RCDマヨルカは既に降格圏内に位置していたが、一時は残留を絶望視されていたチームを建て直し、終盤は大久保嘉人らの活躍で快進撃を続け、劇的な残留に成功した。2004-05シーズンはプリメーラ・ディビシオン残留を決め、2005年夏には多くの新加入選手を迎えたが、2005-06シーズンは再び残留争いに巻き込まれ、2006年2月に成績不振の責任を取ってRCDマヨルカ監督を辞任した。2007年夏にはレアル・ベティスの監督に就任したが、12月2日のアトレティコ・マドリード戦敗戦後に成績不振により解任された。
パルマFCとジョージア代表での迷走
[編集 ]2008年3月11日、 ドメニコ・ディ・カルロ監督の後任として残留を目指すセリエAのパルマFC監督に就任したが、2ヶ月間で10試合を戦って2勝しかできず、古巣インテルとの最終節を前にして解任された。結局、パルマFCはセリエB(2部)に降格した。2008年8月1日にはジョージア代表監督に就任したが、在任期間中に1勝も挙げることができず、2009年末の契約満了とともに退任した。
ギリシャでの復活
[編集 ]2009年11月3日、ギリシャ・スーパーリーグのアリス・テッサロニキと1年契約を結んだ。同年12月15日には契約を2011年6月まで延長した。リーグ戦では5位となり、欧州カップ戦出場権を懸けたプレーオフではオリンピアコスFCを上回る3位となって、クラブ史上初のUEFAヨーロッパリーグ出場権を獲得した。同シーズンのギリシャ・カップでは決勝に進出したが、パナシナイコスFCに敗れて準優勝に終わった。2010-11シーズンのUEFAヨーロッパリーグ・グループリーグでは前年度覇者のアトレティコ・マドリードから2勝するなどし、6試合で勝ち点10を挙げて決勝トーナメントに進出した。しかし、同シーズンのリーグ戦では中位にとどまり、2011年1月に責任を取って辞任した[1] 。
3度目のスペイン挑戦
[編集 ]2011年6月29日、マルセリーノ・ガルシア・トラル監督の後任としてラシン・サンタンデールと1年契約を結んだ[2] 。しかし2011-12シーズンは開幕から13試合でわずか1勝しか挙げられずに最下位に低迷し、成績不振により11月29日に辞任した[3] 。
トルコへ
[編集 ]2011年12月9日にトルコ1部のオルドゥスポル監督に就任。
エジプト代表
[編集 ]2015年3月2日、エジプト代表の監督に就任し[4] 、ワールドカップへの本戦出場に貢献した。しかしグループリーグでの結果が目立たず、契約が更新されないままこの年で解任された[5] 。
ウズベキスタン代表
[編集 ]2018年8月2日、ウズベキスタン代表の監督に就任した[6] 。AFCアジアカップ2019ではベスト16進出に貢献することができた。しかし同年9月、2022 FIFAワールドカップ・アジア予選でパレスチナ代表との試合で2-0という敗戦のスタートを切ってしまい、23日に解任が発表された。
シリア代表
[編集 ]2023年2月、シリア代表の監督に就任した。就任後初の試合となった同年3月のタイ代表戦で勝利を収める。その後はベトナム代表とバーレーン代表に敗戦し2連敗。3試合勝利なしと苦しんだ。
2024年6月11日、 エディオンピースウイング広島で行われたFIFAワールドカップ26アジア2次予選兼AFCアジアカップサウジアラビア2027予選で日本代表と対戦した[7] 。結果は5-0と惨敗[7] 。第5節終了時点で3位の北朝鮮代表と1ポイント差で2位に付けていたシリアは、この後に行われる北朝鮮代表vsミャンマー代表で北朝鮮が敗れた場合、突破の可能性はあったものの北朝鮮代表が3-1で勝利したため、二次予選敗退が決定した[8] 。それに伴い、シリア代表の監督退任を表明した[7] 。
八百長問題
[編集 ]2012年1月20日、イタリア検察の取り調べに対し、アルゼンチンとスペインでの監督時に、それぞれ2試合ずつの八百長に関連し、20万ユーロの報酬を受けていたと認めていたことが、明らかになった。詳しい時期やクラブの名前は明らかになっていない[9] 。
タイトル
[編集 ]指導者
[編集 ]- CAラヌース
- コパCONMEBOL : 1996
- RCDマヨルカ
- スーペルコパ・デ・エスパーニャ : 1998
- バレンシアCF
- スーペルコパ・デ・エスパーニャ : 1999
脚注
[編集 ]- ^ 不振のアリス、クーペル監督が辞任 UEFA.com、2011年1月18日
- ^ クーペル氏がラシンの監督に就任 UEFA.com、2011年6月29日
- ^ ラシンのクーペル監督が辞任 UEFA.com、2011年11月29日
- ^ エジプト代表、新監督はクーペルに決定 Qoly、2015年3月3日
- ^ エジプトサッカー連盟、エクトル・クーペル監督を解任へ sputniknews.com、2018年6月20日
- ^ ロシアW杯へ導いた元エジプト代表指揮官、ウズベキスタンの監督に就任決定 フットボールチャンネル、2018年8月3日
- ^ a b c "「全く日本には及ばなかった」、日本に完敗で敗退濃厚なクーペル監督が辞任表明...". 超ワールドサッカー!. 2024年6月11日閲覧。
- ^ ゲキサカ編集部 (2024年6月11日). "北朝鮮が4大会ぶりアジア最終予選進出...森保Jに敗れたシリアは敗退". ゲキサカ. 2024年6月11日閲覧。
- ^ クーペル監督がアルゼンチン、スペインでの八百長関与を認める SOCCER KING、2012年1月21日
外部リンク
[編集 ]- 人物紹介 ラシン・サンタンデール公式ウェブサイト(スペイン語)
- BDFutboによるプロフィール
- Transfermarktによるプロフィール
- Worldfootballによるプロフィール
- RCDマヨルカでの出場記録 (スペイン語)
- 選手時代の出場記録 BDFA(スペイン語)
|
|
|