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間部詮言

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(2019年3月)
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間部 詮言
時代 江戸時代中期
生誕 元禄3年5月2日(1690年 6月8日)
死没 享保9年8月18日(1724年 10月4日)
別名 主馬(通称)
諡号 瑞昌院
墓所 東京都 台東区花川戸 九品寺多磨霊園に改葬
官位 従五位下、下総
幕府 江戸幕府
越後 村上藩主→越前 鯖江藩
氏族 間部氏
父母 父:西田清貞、母:小川氏(光寿院)
養父:間部詮房
兄弟 詮房詮貞詮之詮衡詮言
宝蓮院(滝、阿部正喬の養女)
見部(間部詮方正室)
養子:詮方
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間部 詮言(まなべ あきとき)は、越後 村上藩の第2代藩主、のち越前 鯖江藩の初代藩主。間部家2代。

生涯

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西田清貞の五男として生まれる。宝永5年(1708年)4月15日、長兄・間部詮房の養嗣子となる。同年5月1日、将軍徳川綱吉御目見する。同年12月18日、従五位下・下総守に叙任する。享保5年(1720年)9月12日、詮房の死去により家督を継ぐが、間もなく越後村上から越前鯖江に移封された。これは、将軍徳川家宣家継の時代に権勢を振るっていた間部家を城主大名から無城大名へ降格させた上、実質的な収入も減らすという、いわゆる左遷であった。

このため、詮言は鯖江の地において、一から藩政の確立に取り組まねばならなくなった。家臣団の編成、町の建設などである。このような中で、詮言は失意のうちに35歳で江戸芝の三田邸にて死去したという。男児が1人いたが、早世していたため、甥(兄・詮貞の子)の詮方を養嗣子として跡を継がせた。

系譜

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父母

正室

子女

養子

エピソード

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村上藩から転封され鯖江藩が成立したことが縁で、新潟県 村上市福井県 鯖江市は1981年に姉妹都市になっている。

間部家村上藩2代藩主 (1720年)
村上家
堀家
本多家
結城松平家
榊原家
本多家
大河内松平家
間部家
内藤家
間部氏 鯖江藩初代藩主 (1720年 - 1724年)

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