菊池能隆
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菊池能隆 | |
時代 | 鎌倉時代 |
生誕 | 1201年(正治3年) |
死没 | 1258年 9月8日(正嘉2年8月10日) |
改名 | 菊池弥次郎→菊池能隆 |
官位 | 従五位下、正五位上 |
幕府 | 鎌倉幕府 御家人、官人 |
氏族 | 菊池氏 |
父母 | 菊池隆継、大友光能の娘 |
妻 | 藤原公清の娘、大友能直の娘 |
子 | 菊池隆泰、西郷隆政、加恵隆時 |
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菊池 能隆(きくち よしたか、1201年(正治3年) - 1258年 9月8日(正嘉2年8月10日))は、鎌倉時代の武将、御家人、菊池氏8代目当主。母は大友光能の娘。幼名は弥次郎。妻は藤原公清の娘と大友能直の娘。
生涯
[編集 ]幼少期
[編集 ]肥後国に生まれる。月日は不明。父である菊池隆継(1187年 - 1204年)と、武将の大友光能の娘のもとで生まれる。しかし、本来8代目当主となるはずだった父が能隆の3歳の時に死去したため、祖父の菊池氏7代目当主の菊池隆定(1167年 - 1222年)の跡を追う事となり、8代目当主となる。
承久の乱時代
[編集 ]1221年(承久3年)に起きた承久の乱で、まだ21歳の能隆は後鳥羽上皇に味方する。そんな中、叔父の菊池家隆、隆元らは宇治で戦うも、上皇方は敗北してしまったため、所領を大幅に削られてしまった。
エピソード
[編集 ]2人の妻がいる能隆は、承久の乱でのペナルティーとして、幕府から押し付けられた妻達だと言われる。また、素直じゃない能隆を幕府が気に入ったため承久の乱後、従五位下、正五位上に任したとする説もある。
墓所
[編集 ]墓所は不明だが、玉名大神社に関連している。
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