曖昧さ回避
この項目では、北海道札幌市を流れる河川について説明しています。かつて名古屋市を流れていた河川については「
新堀川 (名古屋市)」をご覧ください。
精進川(しょうじんがわ)は、北海道 札幌市 南区および豊平区を流れる石狩川 水系 豊平川支流の河川である[2] 。全長(長さ)13.2 km(キロメートル)のうち、北海道が管理する一級河川部分が下流側6.2 km、札幌市が管理する準用河川の部分が7.0 kmである[3] 。
「精進川〜ふるさとの川づくり〜(河畔公園区間)」として、2007年度土木学会デザイン賞(優秀賞)を受賞している[4] 。
札幌市南区の定山渓ゴルフ場の近く、厚別川沿いの滝野すずらん丘陵公園から見て北西にある丘陵付近に源を発し、北に流れる。上流部では、西隣に稜線一つを隔てて並ぶ真駒内川と異なり、川沿いに人家は多くない。中流部の右岸が澄川地区、左岸が真駒内地区である。北海道道82号西野真駒内清田線と交わるあたりから、両岸は平地となり市街地に入る。自衛隊前駅の下を潜り、南区澄川1条4丁目で左岸に精進川放水路を分ける。放水路は西に向かい、ミュンヘン大橋の南で豊平川右岸に注ぐ。精進川本流の方はさらに北に流れて豊平区に入り、右岸が豊平区平岸地区、左岸が豊平区中の島地区となる。下流部では精進河畔公園、豊中公園など川沿いの公園を流れ、幌平橋の北で豊平川の右岸に合流する。
公園周辺ほか沿川には樹木が多く、段丘崖が接する斜面にはわずかながら自然林も残されている[要出典 ][5] 。下流域は冬になると付近の住民による雪捨て場となるが、水量が少ないこともあり雪は流されず川は埋もれてしまう。
精進川沿いには、縄文時代・擦文時代の遺跡(M79遺跡, M81遺跡)があり[6] 、古くから先住民が居住していた。1891年(明治24年)刊行の永田方正著『北海道蝦夷語地名解』に見える地名「オソウシ」[注 1] が、今の精進川にあたると推測されている[9] 。アイヌ語地名の研究者山田秀三によれば、"オソウシ"はアイヌ語の「オ・ソ・ウㇱ(川尻に滝がある)」であり、精進川が崖から滝となって豊平川分流に流れ込むさまを表したものという[10] 。また付近の地名「平岸」はアイヌ語の「ピラ・ケㇱ(崖の端)」に由来し[10] 、精進川が穿った急峻な崖の終わりを指しているという[7] 。
流域への和人の入植は1871年(明治4年)が初めで、岩手県 水沢の出身者を中心とする60数戸が現在の平岸地区に入った。この平岸村の人々は、1873年(明治6年)に用水堀を作って精進川から水を村に引いた[11] (後述「精進川用水堀(平岸用水)」項参照)。
明治・大正期以前の精進川は、現在の精進川放水路のあたりで豊平川の分流に流れ込んでおり[7] 、かつてはその分流と豊平川本流に囲まれた中洲が"中の島"地区と呼ばれていた[12] [13] 。また中流右岸の澄川地区は、この川にちなんで「精進川」と呼称されていた。"澄川"は精進川を雅称したもので、1944年(昭和19年)にこの地名に改称された[14] [11] 。
昭和初期、豊平側右岸の築堤工事により[15] [16] 、豊平川からの分流は遮断され、分流の流路はそのまま精進川の下流部となった[7] 。今の放水路(精進川放水路)は、洪水防止のため精進川から直に豊平川へと水を流し込むべく、1966年から1971年にかけて造られた[要出典 ]。そのため現在の"中の島"は、放水路と精進川と豊平川で区切られた地区となっている。その後1976年(昭和51年)までの工事により、下流は川床と岸の三面をコンクリート護岸で覆われた[15] 。また、この時期は生活排水などで川の汚れが進んだ[要出典 ]。
水質は20世紀末に改善された。北海道は、多自然型川づくり [注 2] の初期の対象に精進川を選び[注 3] 、1992年(平成4年)から「精進川 ふるさとの川事業」として再改修を実施した[24] 。随所でコンクリート護岸が取り外されて川の景観は一新し、住宅地のただなかで自然に親しめる場所になっている[25] 。なお、この事業計画の柱には残されていた河畔林の保全があったが、計画当事者の北海道自身が1996年3月に河畔林の一部をマンション開発業者に売却したため問題となった。住民の反対を受け札幌市議会が買い戻しを要請したが、道は一か月で交渉を断念し、そのままマンションが建設された[注 4] 。
「精進川〜ふるさとの川づくり〜(河畔公園区間)」は、2007年度土木学会デザイン賞で優秀賞を受賞した[4] 。
- 真駒内用水(支流) - 真駒内川から取水し、精進川に注ぐ約4キロメートルの水路。1879年(明治12年)に真駒内牧牛場のために開削された用水路だが、現在は用水としての役割はなく景観上の意義から残されている。
- 精進川放水路(分流) - 精進川から豊平川への排水のために作られた約600メートルの水路[32] 。澄川地区で洪水が起きたため、市街化した平岸・中の島地区の洪水防止のために作られ、1971年(昭和46年)に完成した[要出典 ]。地図には「放水路」とは記されておらず、精進川と呼ばれることが多い。
- 丸カッコ内および斜体は正式名称ではなく、仮に名づけたもの。
精進川放水路の橋
- 中条橋
- 豊進橋 - 国道453号
- 新精進橋 - 豊平川通
- 精進川管理橋 - 豊平川サイクリング園路の自転車用、歩行者用の橋
精進川用水堀(しょうじんがわようすいぼり)は、精進川から取水し豊平川まで続いていた長さ約5.3キロメートルの用水路である[33] 。平岸用水、平岸堀割とも呼ばれる。平岸街道(現在の平岸通)沿いに入植した平岸村住民が、水を得るため1873年(明治6年)に開削した用水路である[注 5] 。精進川から取水する用水の始まりは現在のあじさい公園(澄川2条5丁目)で、そこから緩く蛇行しながら天神山の西まで北に流れ、山の麓を西から北に回りこんで平岸街道にぶつかり、以後は平岸街道とともにまっすぐ北流し、豊平橋付近で左に曲がって豊平川の右岸に合流していた[要出典 ]。
1894年(明治27年)に豊平村・平岸村・白石村・上白石村の農家有志によって豊平外三ヵ村聯合用水組合(とよひらほかさんかそんれんごうようすいくみあい)が設立されると[37] 、平岸用水は精進川および精進川に注ぐ真駒内用水の水を四村に配水する四箇村連合用水路の幹線として大幅に拡張され[注 6] 、用水路網の総延長は30キロメートル以上となって一帯の水田開発と灌漑を第二次世界大戦後に至るまで支え続けた[注 7] 。しかし、戦後の急速な経済成長の中で地域の市街地化が進み水田が減少すると農業用水の必要性は失われ、1961年(昭和36年)に連合用水組合は解散し[37] 、平岸用水(精進川用水堀)を中核とする連合用水路網は平岸通その他の道路拡幅のため埋め立てられて地表から消滅した[注 8] 。現在は、精進川(自衛隊前駅)から天神山までの用水路跡は自転車道(澄川1号用水路自転車道路)・遊歩道として整備されており[45] 、札幌市立澄川西小学校の通学路として使われている。澄川西小学校の通学路では、用水堀の跡が確認できる[要出典 ]。この残っている用水堀は、大雨が降った際の排水路として今も利用されている[要出典 ]。
精進川にはいくつかの滝がある。代表的な滝は、国道453号をくぐった先の精進河畔公園内にある落差2メートルほどの滝で、付近の住民は「精進川の滝(精進の滝)」と呼び[46] [47] [48] [49] 、「川尻の滝」とも俗称される[50] 。また天神山児童会館付近にも、とても小さな滝がある。この滝は、川の中ほどまで行かないと見ることができない。
- ^ 永田方正『北海道蝦夷語地名解』(1891年)は「永田地名解」とも俗称されるアイヌ語地名の解説書。1972年に国書刊行会から、1984年に草風館から復刻版がある(「永田方正」項も参照せよ)。"豊平""平岸"の地名由来に関する札幌市公式ウェブサイト掲載の学芸員による解説ページ「十区十色 豊平区編」末尾に、「パンケ ト°エ ピラ=潰崖(れきがい) 豊平橋の稍〔やや〕上流の支流に崖あり屢(しばしば)水のために潰裂(かいれつ)せらる。ペンケ ―=上の潰崖 明治7年豊平村を置く? : ピラ ケシュ=崖端。「オソウシ」の近傍にあり。(永田方正『北海道蝦夷語地名解』)」と同書からの引用があり[7] 、「オソウシ」の文字も見える。なお、アイヌ語で「パンケ」は川下の意、「ペンケ」は川上の意とされる[8] 。
- ^ 「多自然型川づくり」は旧建設省(現在の国土交通省)が提言し、1990年11月に全国に通達したもの。のち2006年10月の通達で「多自然川づくり」に改称された。山梨県の発行する『河川ハンドブック』(平成21年4月)[17] の「第5章 河川環境」の「第1節 多自然川づくりの考え方」に以下の記述がある。「建設省(当時)河川局は、平成2年〔1990年〕に『「多自然型川づくり」実施要領』をとりまとめ、『「多自然型川づくり」の推進について』として全国に通達しました。これ以後、多自然型川づくりが、わが国において本格的に取り組まれることとなりました。この通達においては、『多自然型川づくり』は次のように定義されています。『「多自然型川づくり」とは、河川が本来有している生物の良好な成育環境に配慮し、あわせて美しい自然景観を保全あるいは創出する事業の実施をいう。』」、その後「国土交通省では (..) 多自然型川づくりの課題を明らかにするとともに、多自然型川づくりをさらに高度なものに引上げるための提言『多自然川づくりへの展開(これからの川づくりの目指すべき方向性と推進のための施策)』(平成18年〔2006年〕5月)がなされました。『多自然川づくり』という概念はこの中で始めてできたものです。」[18] 。
- ^ 空知総合振興局・石狩振興局の副局長だった名取哲哉の2010年(平成22年)の報告によれば、取り組みは、「真駒内川 多自然川づくり」(1988年 - )、「茂漁川 ふるさとの川モデル事業」(恵庭市、1991年 - 1998年)[19] [20] 、「精進川 ふるさとの川事業」(1992年 - 2000年)[21] と続いたとされる[22] 。なお、北海道による"多自然型川づくり"の最初の取り組みは実験的に実施された幌内川 (苫小牧市)であったともいい、環境社会学者の宮内泰介が指導教員を務めた諸星菜緒の北海道大学卒業論文(1999年度)は、「〔北海〕道はまず、1988〜1992年にかけて北海道大学苫小牧演習林内の幌内川を事例として実験的に多自然型川づくりを行い、その結果を受けて、1992年から精進川での再改修に多自然型を導入した。」と記す。
- ^ 北海道庁札幌土木現業所(現在の空知総合振興局札幌建設管理部)によるマンション開発業者への精進川河畔林売却の問題は当時の新聞にも取り上げられた[26] 。この売却問題の経緯については、個別の典拠註やインタビュー取材日時の註記を欠くものの諸星菜緒の北海道大学卒業論文「地域社会と川づくり」(指導教員は宮内泰介)が、当時の河川行政・河川管理の状況を整理した上で買い戻し運動の主体となった複数の市民団体にも取材しながら丁寧に記述している。また、竹中万紀子「河畔林の保護に関わる諸問題」に、売却された道所有地を示す「図1 精進川流域の河畔林地を所有している行政(平岸1条7丁目周辺の河畔林の区割り図)」(『しゃりばり』1996年12月号より転載)が見える[30] 。ほかに、宮内泰介の論文「環境自治のしくみづくり」にも関連した記述がある[31] 。
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平岸用水(精進川用水堀)の開設について、札幌市教育委員会 編『札幌歴史地図〈明治編〉』(1978年)収載の中浜康光による解説「豊平川右岸」は、「明治6年〔1873年〕には『平岸堀割』を50余町(5.3 km)の長さに貫通させた。図12(〔明治40年の〕平岸村居住者の図 10頁)の直線はそれ〔平岸堀割の水路〕で、両側の人名は子孫の人達の住いである。」[34] と記し、『新札幌市史』第2巻は、平岸村開拓団の女性・金山セイが晩年に口述した『平岸村開拓史』を用いて、「札幌の中心から南東へ約1キロメートルの豊平川右岸の河岸段丘上に、明治4年(1871)に移住した一団があった。東北の岩手県水沢や秋田県から開拓使の移民招募に応じた人びとである。(..) しかし、〔台地上にある平岸の開拓で〕一番困ったのが飲料水の確保であった。井戸は、官で掘った井戸が3カ所あったが良い水が出ず、毎日豊平川まで汲みに行かねばならなかった。〔明治〕6年〔1873年〕春、精進川まで堀割を掘削して水を家の前までひいた。」[35] と述べている。また、伴野卓磨「平岸の歴史を訪ねて : 開拓編」の記事内容紹介には、「平岸に入植した移住者が最も困ったのが飲み水の確保でした。(..) 困った村民たちは、開拓使から支給された開発金を用水建設費に回し、村民総がかりで用水堀に挑みます。」(第30回)、「明治5年〔1872年〕、開拓ラッシュをむかえた札幌では材木需要が高まっていました。開拓使は、精進川流域を官林に指定し、伐り出した材木を水路で運搬する掘割を精進川と豊平川の間に設けます。しかし、材木運搬のために川があふれたり、汚れる事態が相次ぎ、平岸用水を使っていた村民たちと水騒動が持ち上がります。」(第31回)、「平岸用水の完成により、開墾が進み、耕地が広がってくると、一本の用水路だけでは足りなくなってきました。こうして、平岸用水に並行して二本の用水路が新たに建設されます。」(第32回)とある[36] 。また後述の富岡秀義「豊平外三ヵ村聯合用水路」(2005年)は、「平岸村では日用水を豊平川から汲み上げて運んで使っていたが、より便利にするため、明治6年〔1873年〕に精進川から堀を造り、澄川から天神山の西側を通り、平岸街道を現在の北海高校前を経て豊平川に注ぐ5.3キロを40日間で完成させた。」と述べる[37] 。
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一連の用水路拡張工事について伴野卓磨「平岸の歴史を訪ねて : 開拓編」の記事内容紹介は、豊平外三ヵ村聯合用水組合による「大水路の建設は、(1) 真駒内用水の取入口の改良、(2) 真駒内用水の付け替え、(3) 平岸用水の取水口への水門の設置、(4) 平岸用水の拡幅、(5) 平岸用水を起点とした新たな水路網の構築という手順で進められました。郷土史に残された昔の写真や古地図から、大工事の実像に迫ります。」(第38回)と記す[36] 。用水路網は聯合用水組合が発足した1894年(明治27年)中に豊平・白石方面に広がる第1号から第4号用水路まで合わせて23キロメートルが完成し[36] 、さらに発足から約20年後の1912年(明治45年)には、水路分岐は第15用水路を数え、その総延長は31キロメートルに及んだという。詳しくは富岡秀義による解説「豊平外三ヵ村聯合用水路 : 米の生産とともに延びた四村共同の用水路」(冊子版『白石歴しるべ〈改訂版〉』(札幌市白石区役所地域振興課、2005年3月)、pp. 42-43)[37] を見よ。聯合用水組合についての史料としては1943年(昭和18年)に発行された福嶋利雄 編著『札幌市豊平外四箇村聯合用水組合沿革誌』があり、北海道立図書館の書誌によれば「札幌・豊平・平岸・白石・上白石聯合用水組合規約」を合本し謄写印刷(ガリ版印刷)したものという[38] 。また、平岸用水を基幹に拡張されていった水路網の様子は、1912年(明治45年)作成の聯合用水路平面図に窺える(「豊平・白石・上白石・平岸四箇村連合用水路設計平面図〈明治45年〉」として札幌市教育委員会 編『札幌歴史地図〈明治編〉』(1978年)[39] に収録。同書は「札幌市白石区民センター展示」とのみ図の出所を記すが、重延実の所蔵という[37] )。また同図は、株式会社流域管理研究所が編纂した『豊平川の治水計画 II(総合治水対策と扇状地河川の河道計画)』(2021年6月発行)[40] の「平岸台地の用水路」項(p. 147)にも収められている[41] 。
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この聯合用水の効用について農林水産省ウェブサイトは、「明治27年〔1894年〕、米需要の増大を受け、当時の北海道庁では米生産を推進した。農家で組織した『札幌市豊平外四箇村総合用水組合』では、水稲栽培に必要な水を、流量が豊富で安定している真駒内用水路に求めた。〔エドウィン・〕ダンが築いた水路の断面を広げ、下流を新たに開削し、それまで数ha〔ヘクタール〕だった水稲栽培面積は急速に拡大し、水利権上の灌漑面積は391 haとなった。『灌漑用水路による水稲栽培の成功』は、その後の北海道における水稲栽培に、一筋の光を与えた出来事であった。」と述べる[42] 。文中の「総合用水組合」は「聯合(連合)用水組合」の誤植。「豊平外四箇村」と計5箇村になっている点について、富岡秀義は「〔1906年(明治39年)から役場の所管となっていた聯合用水路は〕組合員からの申し出により明治43年〔1910年〕に再び組合の管理にもどった。この年に豊平村と上白石村の一部が札幌区に編入され、大正に入ってから豊平外四ヵ村の組合となった。」と記し[37] 、『新札幌市史』第4巻(p. 534)は札幌村が加わり全5村の連合となったためと記している[43] 。1916年(大正5年)には、豊平外三ヵ村聯合用水の開削を主導し、一帯における水稲栽培の礎を築いた阿部仁太郎(豊平村)の功労を称える石碑が豊平神社に建立された[44] 。豊平神社にはその他にも聯合用水路に関する碑が残っている。
- ^ 1961年の平岸通の拡幅と聯合用水路の埋立について、伴野卓磨「平岸の歴史を訪ねて : 開拓編」の記事内容紹介は、「昭和36年〔1961年〕、宅地化が進行し、農業用水として使われなくなった用水路は悪臭を放つドブ川のような状態となっていました。この年、用水路は埋め立てられ、道路は拡幅され現在の平岸通となったのでした。」(第40回)と記している[36] 。また、『豊平川の治水計画II』(流域管理研究所、2021年6月)は、「札幌市の人口は急速に増え続け、さらに昭和25(1950)年白石町〔※(注記)白石村の誤り〕、昭和36(1961)年豊平町が〔札幌市に〕合併し、昭和40(1965)年には79万人に達した。元の豊平町、白石町でも市街地に近い地区には都市化の波が押し寄せ、市街化か米づくりかの選択が迫られた。また、都市化と車社会の到来によって道路は渋滞が常態化していた。このような状況下、昭和36(1961)年、37(1962)年に相続いて大きな洪水が発生し、真駒内川、豊平川豊平橋上流の取水門が壊れ用水の取水が不可能になった。このとき、取水門を復旧するのか、それとも米づくりを止めて用水路敷地を道路にするのかの議論が起り、結局、平岸通、木の花通、環状通、米里行啓通、南7条米里通などは全面道路とすることになった。用水路は、真駒内の緑町公園を流れる小川のような空間さえも残すことなく、埋め立てられた。」と解説している[41] 。
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優秀賞 | |
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奨励賞 |
- 由布院・湯の坪街道・潤いのある町並みの再生
- 板櫃川 水辺の楽校
- 景観に配慮したアルミニウム合金製橋梁用ビーム型防護柵アスレール
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特別賞 | |
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2020 | 最優秀賞 | |
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優秀賞 | |
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奨励賞 |
- 大分 昭和通り・交差点四隅広場
- 百間川分流部改築事業
- 高山駅前広場及び自由通路
- 奈義町多世代交流広場 ナギテラス
- 浅野川四橋の景観照明
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