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瀬戸輝信

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
瀬戸 輝信
基本情報
国籍 日本の旗 日本
出身地 福岡県 福岡市 城南区
生年月日 (1969年03月25日) 1969年 3月25日(55歳)
身長
体重
175 cm
84 kg
選手情報
投球・打席 右投右打
ポジション 捕手
プロ入り 1990年 ドラフト1位
初出場 1991年6月12日
最終出場 2004年10月14日
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度)
選手歴
コーチ歴
  • 広島東洋カープ (2004 - 2006)
この表について
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しかくプロジェクト:野球選手  しかくテンプレート

瀬戸 輝信(せと てるのぶ、1969年 3月25日 - )は、福岡県 福岡市 城南区出身の元プロ野球選手(捕手)。

経歴

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プロ入りまで

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少年野球の金山チャレンジャーズで野球を始めた[1] 福岡大大濠高校では3年春のセンバツで1回戦敗退。高校卒業後は、法政大学に進み、2年生の春には1学年上の葛西稔とバッテリーを組んでリーグ優勝に貢献し、ともにベストナインに選出された[2] 。同年は日米大学野球の代表にも選ばれ、秋のリーグ戦では満票でベストナインを受賞した[3] 。3年生の1989年と4年生の1990年も日米大学野球の代表に選出され、4年秋には2年ぶりにベストナインを受賞。東京六大学では通算70試合に出場し、236打数77安打打率.326、3本塁打、34打点の成績を残した。

現役時代

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1990年のプロ野球ドラフト会議小池秀郎の外れ1位で広島東洋カープから指名を受ける。球団史上最高の契約金7,500万円、年俸720万円(いずれも推定)という好条件で入団した[4] 。当時の山本浩二監督は大学先輩であり、強肩リードも良い大学No.1捕手として球団からは即戦力の期待をかけられていた[5] 。前々年まで高橋慶彦が着けていた背番号2となる[6]

1991年はオープン戦終盤でファウルボールを打った際に右手小指を骨折して手術を受けている[7] 。同年はジュニア日本選手権で優秀選手賞を受賞した[8] 1992年は同年で引退することになる[9] 達川光男の後継者として期待がかけられた[10] が、入団当初から指摘されていたパスボール癖が治らなかったことや[11] 打撃面での苦戦により、西山秀二らとのポジション争いに敗れ、正捕手にはなれなかった。

1995年キャンプイン直後に引退を申し出たが球団に説得されて撤回した[12] 。このシーズンは西山の故障の影響もあり三村敏之監督に積極的に起用されて78試合に出場し、オフには年俸が1,100万円増の2,400万円(推定)となっている[13] 1998年は再度故障で長期離脱した西山に代わり正捕手をつとめて自己最多の120試合に出場し、年俸が3,500万円(推定)まで増加した[14]

1999年は右の代打の切り札として、シーズン終盤まで打率3割をマークした。木村一喜石原慶幸倉義和が一軍に定着するようになったが西山に次ぐ二番手捕手として起用[15] 2001年には1試合5安打を記録するなど勝負強い打撃でチームに貢献した。2004年からコーチ兼任となり、同年シーズン終了後に引退した。

現役引退後

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2005年からは一軍バッテリーコーチに就任。2006年には二軍バッテリーコーチを務めた。同年オフに退団。現在は呉市で「瀬戸輝信の野球院」を設立し少年野球のインストラクターを務めている。

エピソード

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  • 1998年の横浜戦において、ファウルボールを捕球しようとした際にネクストバッターズサークルに置いてあったスプレーを踏みつけたことでスプレーが噴射し、白煙にまみれながら捕球した姿が「プロ野球珍プレー・好プレー大賞」において取り上げられた。

詳細情報

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年度別打撃成績

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O
P
S
1991 広島 7 8 8 0 2 0 0 0 2 0 0 0 0 0 0 0 0 3 0 .250 .250 .250 .500
1992 5 7 5 0 0 0 0 0 0 0 0 0 1 0 1 0 0 1 0 .000 .167 .000 .167
1993 26 45 40 2 10 1 0 0 11 1 0 0 1 0 4 0 0 9 0 .250 .318 .275 .593
1994 34 44 37 3 7 0 1 0 9 3 0 0 3 0 4 1 0 9 2 .189 .268 .243 .512
1995 78 241 203 24 52 8 0 2 66 22 2 1 15 1 20 4 2 42 4 .256 .327 .325 .653
1996 21 48 39 3 9 3 0 1 15 5 0 0 2 1 6 1 0 11 2 .231 .326 .385 .711
1997 79 175 152 13 31 4 2 2 45 12 1 0 5 0 14 3 4 30 4 .204 .288 .296 .584
1998 120 362 322 20 75 8 1 3 94 27 4 3 16 3 18 3 3 73 8 .233 .277 .292 .569
1999 56 141 123 10 34 7 0 0 41 11 0 0 6 1 8 0 3 25 2 .276 .333 .333 .667
2000 48 125 114 11 31 2 0 1 36 6 0 1 2 0 7 0 2 26 5 .272 .325 .316 .641
2001 51 77 72 7 21 3 1 1 29 4 0 0 2 0 3 1 0 12 4 .292 .320 .403 .723
2002 8 7 7 2 2 0 0 0 2 0 0 0 0 0 0 0 0 3 0 .286 .286 .286 .571
2003 3 3 3 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 .000 .000 .000 .000
2004 1 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 ---- ---- ---- ----
通算:14年 537 1283 1125 95 274 36 5 10 350 91 7 5 53 6 85 13 14 244 31 .244 .303 .311 .614

年度別守備成績

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捕手
試合 企図数 許盗塁 盗塁刺 阻止率
1991 6 2 0 2 1.000
1992 5 3 3 0 .000
1993 25 9 4 5 .556
1994 32 7 3 4 .571
1995 78 47 33 14 .298
1996 19 13 8 5 .385
1997 78 39 27 12 .308
1998 120 53 34 19 .358
1999 54 26 18 8 .308
2000 47 21 13 8 .381
2001 48 22 14 8 .364
2002 7 2 2 0 .000
2004 1 0 0 0 -
通算 520 244 159 85 .348

記録

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背番号

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  • 2 (1991年 - 1995年)
  • 28 (1996年 - 2004年)
  • 84 (2005年 - 2006年)

脚注

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  1. ^ 読売新聞、2001年2月27日付朝刊、福岡地方面
  2. ^ 読売新聞、1988年6月2日付朝刊、P.19
  3. ^ 読売新聞、1988年11月3日付朝刊、P.19
  4. ^ 読売新聞、1990年12月1日付朝刊、P.19
  5. ^ 読売新聞、1990年11月25日付朝刊、P.18
  6. ^ 日本プロ野球 背番号物語 ベースボールマガジン社
  7. ^ 読売新聞、1991年3月21日付朝刊、P.18
  8. ^ 読売新聞、1991年9月22日付朝刊、P.19
  9. ^ 1993ベースボールレコードブック ベースボールマガジン社
  10. ^ 読売新聞、1992年2月28日付朝刊、P.19
  11. ^ 自身の引退試合でもパスボールをしている。
  12. ^ "【2月3日】1995年(平7) 「自信なくした」ドラ1広島・瀬戸、退団を撤回". スポニチ Sponichi Annex (2008年1月25日). 2019年8月18日時点のオリジナルよりアーカイブ。2023年10月4日閲覧。
  13. ^ 朝日新聞、1995年11月27日付朝刊、P.27
  14. ^ 朝日新聞、 1999年11月23日付朝刊、P.15
  15. ^ 読売新聞、2000年5月16日付朝刊、広島地方面

関連項目

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外部リンク

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日本の旗 野球日本代表

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