李源
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皇嗣孫 李源 | |
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李氏 (英語版) | |
全名 | 李 源(이원) |
称号 | 皇嗣孫(황사손) |
出生 |
(1962年09月23日) 1962年 9月23日(62歳) |
子女 |
이권 이영 |
父親 | 李鉀 (朝鮮語版) |
役職 |
全州李氏大同宗約院総裁 王室文化院 (朝鮮語版)総裁 大韓皇室文化院 (朝鮮語版)総裁 |
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李 源 | |
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各種表記 | |
ハングル: | 이 원 |
漢字: | 李 源 |
発音: | イ・ウォン |
日本語読み: | り げん |
ローマ字: | I Won |
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李 源(イ・ウォン、り げん、朝鮮語: 이 원、1962年 9月23日 - )は、朝鮮国と大韓帝国の君主家だった全州李氏の子孫。
最後の朝鮮国王(第26代)にして初代韓国皇帝である高宗の曾孫。全州李氏宗家の第30代当主であり、韓国の皇位継承者として「皇嗣孫(황사손)」を称する。
半生
[編集 ]かつて義王であった李堈の第9子李鉀 (朝鮮語版)の長男として生まれる[注釈 1] 。出生時の名前は「相協(상협、サンヒョプ)」。
1981年、ソウルの尚文高等学校を卒業したのち父親と共に渡米、ニューヨーク工科大学において新聞放送学を修めた。アメリカのケーブルテレビ局でプロデューサーとして働き、韓国に帰国後は現代放送などにプロデューサーとして勤めた。2001年に現代ホームショッピングに入社、児童スポーツ部長に就任する。
2005年7月、宗家当主である李玖が子女なく死去すると、全州李氏大同宗約院の決定によって第30代当主になった。李源より皇位継承順位が高いと考えられる者が複数人いたものの、彼らは家督相続に興味を示さなかった[注釈 2] 。
今は当主として儀式や祭祀に専念している。京畿道の高陽市のアパートに住んでおり2人の息子がいる。
「大韓帝国」への国号改称120周年である2017年 10月14日に、ソウル広場で大韓帝国宣布式の全過程が初めて再現された際には、皇帝高宗の役を務めた[2] [3] 。
李宗家関連団体
[編集 ]- 李源の李宗家第30代当主継承 承認・支持派
- 全州李氏大同宗約院
- 李朝皇族の子孫たちの大部分が設立した社団法人。李朝皇室継承者の決定、および祭祀を行う。
- 大韓皇室再建会
- わが皇室愛の集まり(우리황실사랑회)
- 2001年、李朝皇室の象徴的な復活を希望する人々が設立。
- 李源の李宗家第30代当主継承 未承認・反対派
- 皇室文化財団(황실문화재단)
- 2006年8月に李錫によって創設された、李錫を総裁とする社団法人。
- 大韓帝国皇室
- 2006年5月5日に「大韓帝国皇族会」として結成され、同年9月29日に改称。2006年10月29日、李海瑗の「皇位継承式」をおこなった。
系図
[編集 ]李源の親類・近親・祖先の詳細
璿源系譜紀略(荘祖懿皇帝子孫)
李氏朝鮮後期系図
配色: 朝鮮国王 追尊国王・世子 大君・大院君 宗親 両班
脚注
[編集 ]注釈
[編集 ]- ^ 李鉀の出生当時李堈は日本の公族であり、公であった。多くの子を儲けたが、公を継いだ李鍵と雲峴宮家の養子になった李鍝以外の子は公族とされなかった[1]
- ^ なお、2006年に叔父・李錫や伯母・李海瑗が第30代当主を主張したことにより、当主の座をめぐって係争が生じているものの、一般的に李源が正当な当主とされる。
出典
[編集 ]- ^ 新城道彦『朝鮮王公族 ―帝国日本の準皇族』中公新書、2015年3月。ISBN 978-4-12-102309-4。 Kindle版、位置No.全266中 129 / 48%
- ^ "大韓帝国宣布式の全過程を初めて再現". 中央日報 . (2017年10月15日). https://japanese.joins.com/article/394/234394.html 2019年3月4日閲覧。
- ^ "'대한제국 선포' 재현행사". 中央日報 . (2017年10月14日). https://news.joins.com/article/22011935 2019年3月4日閲覧。