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木下俊程

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曖昧さ回避 大名の「木下利徳」とは別人です。
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(2019年12月)
 
木下俊程
時代 江戸時代後期
生誕 天保4年2月6日(1833年 3月26日)
死没 慶応3年8月20日(1867年 9月17日)
戒名 文献院
墓所 東京都 港区 高輪泉岳寺
官位 従五位下 飛騨守
幕府 江戸幕府
主君 徳川家定家茂慶喜
豊後 日出藩
氏族 木下氏
父母 木下俊敦、美佐
木下俊方
兄弟 俊方毛利元純俊程俊愿
柳生俊順正室、峯子、伊東祐帰正室ら
俊愿 綏子
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木下 俊程(きのした としのり)は、豊後国 日出藩15代藩主。官位は従五位下、飛騨守。

経歴

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天保4年(1833年)2月6日、日出で生まれる。嘉永7年(1854年)8月18日、兄で先代藩主だった俊方の早世により、その養嗣子として跡を継いだ。同年12月16日、従五位下・飛騨守に叙任する。藩校・稽古堂をさらに増築して致道館を創設し、武道場も新たに創設するなどして教育の普及と充実に尽力した。幕末期の幕政にはあまり関わりを持たず、藩政において外国船警備のために遠見番所を設置し、慶応元年(1865年)からは軍制改革を実施するなどした。慶応3年(1867年)5月29日に隠居し、弟の俊愿に家督を譲った。同年8月20日、35歳で江戸にて死去した。法号は文献院。墓所は東京都 港区 高輪泉岳寺

系譜

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父母

養子、養女


木下氏日出藩15代藩主 (1854年 - 1867年)

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