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有田二郎

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曖昧さ回避 1884年生の外交官・貴族院議員・衆議院議員の「有田八郎」とは別人です。
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(2013年6月)
造船疑獄により逮捕を受ける日の朝(1954年2月)
幼少期の有田二郎(右から二人目)。兄・迪夫、弟・博夫、妹・大子、母・多嘉子とともに

有田 二郎(ありた じろう 1904年 7月1日 - 1980年 10月28日)は、昭和期の政治家実業家衆議院議員(5期)。名村汽船取締役。

経歴

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性病薬の有田ドラッグを経営し言論活動でも名を馳せた有田音松の次男として生まれる。東京帝国大学 倫理科を卒業し、大阪薬学専門学校講師、終戦連絡大阪事務局参与などを歴任。1946年総選挙(大阪府第1区)に日本自由党公認で初当選、その後民主自由党自由党に所属し当選5回(大阪1区)。衆議院運輸・人事委員長や民主自由党総務・自由党副幹事長を歴任し、第3次吉田内閣では商工政務次官通産 政務次官を務めた。1953年の国会予算審議では、社会党右派堤ツルヨから「断末魔の自由党」と野次られたのに対して「パン助だまれ」と応え、女性蔑視の暴言として問題になった[1]

造船疑獄の発覚から、1954年 2月16日に国会法第33条に基づく逮捕許諾請求が行われ、同23日に衆議院本会議3月3日までの期限付の逮捕許諾決議が可決されて逮捕された[2] 。裁判では懲役2年執行猶予3年の有罪が確定した[3]

造船疑獄で立件されたことが響いて、有田は1955年総選挙で落選。1958年総選挙1960年総選挙でも政界復帰を果たせず、その後は政界から遠ざかっていたが、1977年参院選で私学振興を訴えて全国区に出馬。だが、33702票しか得票できず落選に終わっている。1978年秋の叙勲で勲三等 旭日中綬章受章[4]

1980年10月28日死去、76歳。死没日をもって従四位に叙される[5]

家族

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父・有田音松

父親の有田音松(1867-1944)は広島県 御調郡 三原町で生まれ、売薬業「有田ドラック商会」を成功させ、大阪府の多額納税者となった[6] 。敬神崇祖皇室中心主義などを高唱し、二荒芳徳伯爵の著書『皇太子殿下御外遊記』(澤田節蔵と共著、1924年、東京日日・大阪毎日新聞社)を私費でもって全国の官立学校に寄贈し『祖先崇拝』などの自著を官営学校や役場、青年団に寄贈、また、巨額を投じて全国の県庁所在地で敬老会を開催、大阪に8階建ての洋館を建設して地方青年団や学生団、在郷軍人団の無料宿泊所として提供するなど国士としても名を馳せた[6]

音松は梅毒淋病、肺病に効く全治請負薬を謳って新聞に一面広告を出し、完治者の体験談紹介や、性病により頭部の皮膚が侵されたり鼻が欠けたりした人体模型を販売店店頭に置くなど、派手な宣伝活動で売り上げを伸ばし、現代のフランチャイズを思わせる身元保証金と引き換えの支店長募集制度により、台湾、朝鮮、満州などを含む全国に約700の専売店を持つ日本一の売薬王となったが、絶頂期の1924年に『有田音松の真相』(福田周平著、白鳥社刊)が出版され、翌1925年には有田ドラックの編集部主任・渡辺新次が辞職後野依秀一の『実業之世界』に暴露文を掲載し、医学の知識のない渡辺が有田の論文や誇大広告を捏造していたことを告白した[7] [8] [9] [10] 。音松と金を巡って決裂した渡辺は野依に告発文を売り込み、野依はそれで音松を強請ったが断られたことで雑誌で反有田キャンペーンを繰り広げた[8]

渡辺によると、有田は20代のころは壮士演説で全国を回り、神戸 福原遊郭の妓夫太郎(客引き)時代、朝鮮放浪時代にはかなりの悪事を重ねたという[7] 。中山由五郎『変態処世術』(1930年)によると、祖母の金を盗んで家出し、奉公先を転々としたのち、盗みなど罪を重ねて熊本で収監、妓夫時代に悪客を攻撃する刊行物を印刷屋に書かせて強請り、大金を手にして朝鮮に渡航、そこで薬の調合を知り「満韓売薬商会」を設立して誇大広告や偽の体験談を打って一儲けしたのち明治末期に帰国し、有田ドラックを設立したという[9] 。有田征伐と題した『実業之世界』での執拗なキャンペーンにより売り上げは半減し、1926年、東京警視庁取り調べの後次男に商売を譲り、経営から退いた[8] [9]

脚注

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  1. ^ 読売新聞』1953年8月2日
  2. ^ 『戦後政治裁判史録2』324頁。
  3. ^ 『戦後政治裁判史録2』333-335頁。
  4. ^ 『官報』号外第87号1頁 昭和53年11月6日号
  5. ^ 『官報』第16140号11-12頁 昭和55年11月8日号
  6. ^ a b 有田音松『人事興信録』第8版 [昭和3(1928)年7月]
  7. ^ a b 『有田音松と野依秀一 : 狂か?義か?』放天散士 著 (事業之日本社, 1925)
  8. ^ a b c 野依秀一と有田音松『暗黒面の社会 : 百鬼横行』大浜孤舟 著 (新興社, 1926)
  9. ^ a b c 江戸川乱歩「白昼夢」における傍観者としての大衆 --有田音松征伐とチリップチャラップ節を視座として--宮本和歌子, 京都大学大学院文学研究科国語学国文学研究室『京都大学國文學論叢』巻40, 2018年9月30日
  10. ^ 『ドキュメント日本人 第9 虚人列伝』谷川健一, 鶴見俊輔, 村上一郎責任編集,学芸書林, 1969.7 「有田音松 : ニセ国士・有田音松伝 : 日本のジキルとハイド」稲垣喜代志

参考文献

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  • 田中二郎、佐藤功、野村二郎編『戦後政治裁判史録2』第一法規出版、1980年。

関連項目

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議会
先代
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次代
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