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山元清多

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
曖昧さ回避 瓦工事技術者の「山本清一」とは別人です。
やまもと きよかず
山元 清多
プロフィール
誕生日 (1939年06月11日) 1939年 6月11日
出身地 日本の旗 日本 東京都
死没日 (2010年09月12日) 2010年 9月12日(71歳没)
死没地 日本の旗 日本 東京都 新宿区
主な作品
テレビドラマムー一族
青が散る
はいすくーる落書
カミさんの悪口』シリーズ
映画佐賀のがばいばあちゃん
舞台 『さよならマックス』
『比置野(ピノッキオ)ジャンバラヤ』
受賞
第27回岸田國士戯曲賞
(『比置野(ピノッキオ)ジャンバラヤ』)
その他
劇団黒テント所属
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山元 清多(やまもと きよかず、1939年 6月11日 [1] - 2010年 9月12日)は日本脚本家劇作家演出家東京都 江東区出身[1] 東京都立両国高等学校卒業[1] 東京大学教育学部教育心理学科卒業[1] 劇団黒テント所属。妻は女優の稲葉良子

略歴

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5人兄弟の長男[1] 。父親は自営業だが、太平洋戦争 終戦を境に事業がうまくいかなくなって仕事・住居ともに転々としていた[1] 。大学では演劇研究会に所属[1] 。大学在学中より芝居の執筆を開始。大学卒業後は時事通信社に入社し、運動部記者としてアマチュアスポーツを3年間担当[1] 1967年に「六月劇場」の結成参加のため時事通信社を退職[1] 。その後六月劇場を経て、1968年に黒テントの前身である「演劇センター68」に参加。舞台脚本デビューは1969年の作品の『海賊』[1] 佐藤信加藤直とともに黒テントの座付き作家となり、また演出も担当した。ブレヒト作品の設定を日本に置き換えた『ハザマとスミちゃん』や『隠し砦の肝っ玉』など、さまざまな舞台の脚本・演出を手掛け、1983年には『比置野(ピノッキオ)ジャンバラヤ』で第27回岸田國士戯曲賞を受賞している[1]

テレビドラマにも進出。岸田森樹木希林から紹介してもらい、久世光彦に出会ったのをきっかけに、久世プロデュース作品の脚本を多く手掛ける[1] 。その他にも脚本家としてテレビドラマ等で多くのヒット作がある。

2010年9月12日午後4時18分に肺がんのため東京都新宿区の病院で死去。71歳没。

作品

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舞台

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この節の加筆が望まれています。 (2017年4月)
  • 海賊(1969年)
  • さよならマックス(1973年)
  • 比置野(ピノッキオ)ジャンバラヤ(1983年)

テレビドラマ

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映画

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作詞

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著書

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  • 『しろいくれよん』(PHP研究所 1979)
  • 『さよならマックス 戯曲集』(而立書房 1980)
  • 『比置野ジャンバラヤ』(白水社 1983)
  • 『愛するということ』(テイ・アイ・エス 1993)

脚注

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  1. ^ a b c d e f g h i j k l 週刊テレビ番組(東京ポスト)1989年1月20日号「脚本家の横顔 山元清多・その1」62頁
  2. ^ 長年にわたり岸田森のペンネームと言われてきたが、2005年以降の調査で山元が盟友・岸田のアイデアに基づいて書いた作品(ギャラは全額、岸田から山元に渡された)と判明している。武井崇著「岸田森 夭折の天才俳優・全仕事」洋泉社、2017年。P74-76。「特撮秘宝 Vol.7」洋泉社、2017年。P180、P207

関連項目

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1950年代
1960年代
1970年代
1980年代
1990年代
2000年代
2010年代
2020年代
  • 第64回 市原佐都子『バッコスの信女-ホルスタインの雌』/谷賢一『福島三部作 第1部「1961年:夜に昇る太陽」 第2部「1986年:メビウスの輪」 第3部「2011年:語られたがる言葉たち」』
  • 第65回 該当作なし
  • 第66回 福名理穂『柔らかく搖れる』/山本卓卓『バナナの花は食べられる』
  • 第67回 加藤拓也『ドードーが落下する』/金山寿甲『パチンコ(上)』
  • 第68回 池田亮『ハートランド』

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