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大島めぐみ

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
大島 めぐみ Portal:陸上競技
選手情報
フルネーム おおしま めぐみ
ラテン文字 Megumi Oshima
愛称 めぐ
国籍 日本の旗 日本
種目 中距離走長距離走マラソン
所属 あさひ銀行埼玉りそな銀行しまむら
生年月日 (1975年09月04日) 1975年 9月4日(49歳)
生誕地 埼玉県 熊谷市
身長 160cm
体重 43kg
自己ベスト
5000m 15分17秒92 (1999年)
10000m 31分34秒01 (2004年)
ハーフマラソン 1時間09分59秒 (2005年)
マラソン 2時間24分25秒 (2005年)
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大島 めぐみ(おおしま めぐみ、1975年 9月4日 - )は埼玉県 熊谷市出身の日本女子陸上競技選手(プロランナー)及び指導者。専門は長距離走マラソン旧姓は田中。

主な実績に、2000年 シドニーオリンピック2004年 アテネオリンピック各女子長距離走・日本代表。1999年 世界陸上セビリア大会2003年 世界陸上パリ大会各女子長距離走、2005年 世界陸上ヘルシンキ大会女子マラソン日本代表など。

来歴

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1991年4月、埼玉栄高等学校に入学、同陸上競技部に在籍。1学年上に柿沼和恵が、2学年上に徳田由美子鈴木真紀らがいた。同高校2年時、鳩山高校に敗れ全国高校駅伝大会に出場はならなかった。3年時も鳩山高校に敗れたが北関東地区代表に選出され、全国高校駅伝大会に出場しチームは総合4位。エース区間1区6kmをトップのエスタ・ワンジロ(仙台育英2年 [1] )と34秒差の19:51で走り区間6位だった[2]
1994年3月に高校卒業後、同年4月にあさひ銀行(現・埼玉りそな銀行)に入社、同女子陸上部に所属。2003年3月に埼玉りそな銀行の陸上部廃部に伴い、同年4月に衣料品販売業のしまむらへ移籍。2004年くろしお通信所属(当時、現日清食品)で4歳年下の大島健太と結婚。

五輪初代表は2000年9月のシドニーオリンピックだった。女子5000mに選出されての出場となるも、予選レースで9着に終わり決勝進出はならなかった(他、市川良子志水見千子共に予選敗退)。

2002年 3月名古屋国際女子マラソンで初マラソンに挑戦。26Km付近で同じく初マラソンながら初優勝を果たした野口みずきのスパートについていけず、30Kmを過ぎてからは2位の大南博美にも追い抜かれたものの、3位の好成績を残した。これを機に、長距離トラック種目からフルマラソンまでこなせるランナーへと成長する。

2度目のマラソンだった2003年 1月大阪国際女子マラソンは、中間点辺りまで先頭集団のハイペースについていったが、中間点を過ぎてから徐々に遅れて後退し、結局7位に終わった。

アテネオリンピックの女子マラソン代表・国内選考レースだった、2004年3月の名古屋国際女子マラソンでは、32km辺りからじわじわ土佐礼子を引き離して先頭に立ち、35km地点では11秒の差をつけ勝負あったかに見えた。しかし35kmを過ぎてからペースダウンとなり、追い上げられた土佐に37km地点で逆転を許して2位でゴール。惜しくも女子マラソンでの五輪代表を逃した。

その後、2004年6月の日本選手権女子10000mでは、気温30度近い高温の中自己記録で2位に入り、トラック種目で2大会連続2回目の五輪代表入りを果たした。同年8月のアテネ五輪女子10000mでは、残りトラック1周手前で優勝争いの先頭集団に周回遅れにされてしまい、メダルも入賞争いにも加わることは出来なかったが、日本人ではトップの13位だった(他、弘山晴美は18位、福士加代子は26位)。

2005年3月、再び名古屋国際女子マラソンで優勝を狙うものの、初マラソンの原裕美子にわずか6秒差で敗れ、マラソン自己記録をマークしたが又しても2位に甘んじる。しかしながら、この成績で世界陸上選手権ヘルシンキ大会の女子マラソン代表に選ばれた(世界陸上日本代表としては長距離走種目も含めて通算3回目の出場)。2005年8月の世界陸上女子マラソン本番では、序盤から優勝したポーラ・ラドクリフらの高速ペースについていかず自重、8位入賞にあと一歩届かなかったものの、後半に追い上げて10位に入った。なお、女子マラソン団体戦では日本代表として銀メダルを獲得している。

2006年2007年はケガの為にマラソンへ出場出来ず、トラック競技や駅伝の方に重点を置いていた。また、2006年9月の一関国際ハーフマラソンでは大会新記録で優勝している。

約2年半ぶりのマラソン出走となる、2008年 3月9日開催の名古屋国際女子マラソンに一般参加選手として出場。同年開催の北京オリンピックの女子マラソン代表を目指したが、30km手前で優勝争いから脱落、終盤に追い上げたものの6位に留まった。その後同年6月の日本選手権は欠場したため、トラック種目での北京五輪代表入りも断念。日本女子陸上選手としては弘山晴美らに続く、3大会連続の五輪代表はならなかった。

2008年10月15日、所属先のしまむらを退社。翌2009年 2月23日妊娠4か月を迎え、2009年9月14日長男出産した事を自身のブログにて公表した。

2010年 12月12日、2年ぶりのマラソンとなるホノルルマラソンに出場、7位でゴール。2011年 2月20日横浜国際女子マラソンへ約3年ぶりの国内メジャー大会に出走したが、25Kmを過ぎた後リタイアに終わる。2012年 3月11日ロンドンオリンピックの国内最終選考レースとなる名古屋ウィメンズマラソンに一般参加でエントリーしていたが、故障が回復しない為欠場となった。

現在も現役プロランナーとして活動する傍らで、ランニングクリニックの講師や野菜ソムリエ資格、アスリートフードマイスターを取得するなど、陸上競技指導者としても活動中。

主な成績

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エピソード

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脚注

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  1. ^ のち2000年シドニー五輪マラソンケニア代表で出場し、優勝した高橋尚子と3分03秒差の2:26:17をマークし4着でゴールした。
  2. ^ この大会の他の出場選手には、同学年で1区2位19:22の高橋千恵美(聖和学園3年)、1区11位20:03の坂下奈穂美(順天3年)、1区16位20:21の木村泰子(尾山台3年)、2区川上優子(熊本信愛3年)、一学年下で2区千葉真子(宇治2年)、3区市河麻由美(市立船橋2年)らがいた(全国高校駅伝1993年第5回女子大会記録 毎日新聞社)。

関連項目

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外部リンク

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全国女子駅伝2区区間賞
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2020年代
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