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息嬀

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息嬀
の侯爵夫人
の王后

配偶者 息侯
  文王
子女 堵敖
成王
氏族 嬀姓陳氏
出身諸侯国
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息嬀(そくき、生没年不詳)は、の公女。息侯・文王の妻。堵敖成王の母。先夫・後夫の号を重ねて息夫人文夫人と呼ばれている。桃の花のような美しさから、桃花夫人とも呼ばれている。

生涯

前684年、姉の蔡嬀とそれぞれに嫁いだ。蔡を通った時、蔡の国君である哀侯は彼女の美貌を聞いて、息嬀を強占した。息侯の要請で、楚の文王は大軍を動員して蔡を討伐し、息嬀を奪還した。

蔡の哀侯がこれを恨みに思い、前680年に息嬀が美人であると楚の文王に吹き込んだ。今度は文王が大軍を起こして息を伐し、息を滅亡させた。文王は息嬀を連れ帰り自分の妻としている。

文王は息嬀を寵愛し、2人の男子が生まれた。しかし、故国の息を懐かしみ、話をしたことはない。文王が彼女の気持ちに気づき、再び蔡を攻撃して入城した。蔡侯も楚で客死した。

前675年、文王が死去し、長男の堵敖は楚王となった。前672年、次男の熊惲は堵敖に殺害されそうになり、随に亡命した。熊惲は随の国人の助けを借りて、堵敖を襲撃して殺害し、楚王として即位した。これが成王である。成王がまだ幼いため、その叔父の子元(文王の弟)は令尹として権勢を握る。前664年、子元は息嬀に同居を強要したが、同年秋、申公鬬班が子元を殺害した。その後の経歴は不明。

劉向の『列女伝』によると、息侯が捕虜になって城を守る役人に落とされている。ある日息嬀は楚王が宮を出る機会に乗って、宮中を離れて息侯との再会を果たし、2人は心中を遂げた。楚王は感動して、2人を合葬した[1] 。この説は後世では人気のある題材だが、一般的には史実とは考えられない。「貞女は二夫に従わず」という儒教的倫理観を反映している。

脚注

  1. ^ 『列女伝』貞順伝「息君夫人」

伝記資料

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