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カタリナ・デ・ランカステル

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(2022年10月)
カタリナ・デ・ランカステル
Catalina de Lancáster
カスティーリャ王妃
在位 1390年 10月9日 - 1406年 12月25日

出生 (1373年03月31日) 1373年 3月31日
イングランド王国の旗 イングランド王国ハートフォードシャー ハートフォード城
死去 (1418年06月02日) 1418年 6月2日(45歳没)
カスティーリャ王国バリャドリッド
埋葬 カスティーリャ王国トレド大聖堂
結婚 1393年 マドリード
配偶者 エンリケ3世
子女 マリア
カタリナ
フアン2世
家名 ランカスター家
父親 ランカスター公 ジョン・オブ・ゴーント
母親 コンスタンス・オブ・カスティル
宗教 ローマ・カトリック
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カタリナ・デ・ランカステル(Catalina de Lancáster, 1373年 3月31日 - 1418年 6月2日)は、カスティーリャ王 エンリケ3世の王妃。

英語名キャサリン・プランタジネット(Catharine Plantagenet)またはキャサリン・オブ・ランカスター(Katherine of Lancaster)。

生涯

イングランドのランカスター公ジョン・オブ・ゴーントと、2度目の妻コンスタンス・オブ・カスティル(スペイン名:コンスタンサ・デ・カスティーリャ)の長女として、ハートフォードで生まれた。母はカスティーリャ王ペドロ1世の次女であり、父が庶兄エンリケ2世に謀殺された後、「カスティーリャ女王コンスタンサ」を名乗り、自身の王位継承権を主張していた。

その後1388年に、フアン1世とイングランドが結んだバイヨンヌ条約 (英語版)により、コンスタンスとジョンはカスティーリャ王位請求権を放棄し、代わりに賠償金と領地を受け取った。そして、正当な王位継承者であるカタリナを、庶出の(簒奪者の)トラスタマラ家に嫁がせることで、両者の争いを終結させた。また、同時期に父ジョンは隣国ポルトガルと同盟関係を締結させ、カタリナの異母姉フィリッパジョアン1世に嫁がせた。

1393年に、マドリードアストゥリアス公エンリケと結婚し、3子をもうけた。

カタリナは夫の死後、幼いフアン2世の摂政をエンリケ3世の弟フェルナンド・デ・アンテケラ(後のアラゴン王フェルナンド1世)とともに務めた。1418年、カタリナはバリャドリッドで死去した。

系譜

曽祖母:
イザベラ(フランス王女)
曽祖母:
ジャンヌ[1]
曽祖母:
マリア(ポルトガル王女)
祖母:
マリア・デ・パディーリャ 曽祖父:
フアン・ガルシア・デ・パディーリャ
曽祖母:
マリア・デ・イネストロサ

脚注

  1. ^ フランスフィリップ6世の妹。

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