エオワ
エオワ Eowa | |
---|---|
マーシア王 | |
在位 | 626年ごろ - 642年8月5日 |
子女 | アルウェオ、オズモンド |
父親 | ピュバ |
テンプレートを表示 |
エオワ(Eowa、エアワ Eawa とも)は、イングランド七王国時代のマーシア王。 マーシア王ピュバの息子の一人で、ペンダの兄。9世紀の歴史書『ブリトン人の歴史』によれば、弟王ペンダとの戦いに敗れノーサンブリア王オズワルドと共に殺害された。
メザーフェルスの戦い
エオワに関する資料はわずかで、同時代の主要な資料であるベーダの『英国民教会史』および『アングロサクソン年代記』にはエオワの事績やメザーフェルスの戦いに加わったこと、そこで戦死したことなどについての記述がなく、マーシア王であったことも書かれていない。『年代記』にはエゼルバルドおよびオファの系譜をたどる中でエオワの名が出てくるが、『教会史』にはそうした記述もない。
『ブリトン人の歴史』65章にはエオワの死について、次のような記述がある。「彼(ペンダ)はコクボイ(Cocboy)の戦いを行って、その中でピッパの息子で、彼の兄であるマーシアの王エアワ(=エオワ)とノルド人の王オズワルド (英語版)を殺害し、悪魔の術によって勝利者となった[1] 。」
『カンブリア年代記』(644年の項)には「Cogfryの戦いで、ノルド人の王オズワルドとマーシア人の王エアワが命を落とした」との記述もある[2] 。
これら二つの資料によれば、エオワは642年(諸説あり)8月5日のメザーフェルスの戦い[3] (Battle of Maserfield、マゼルフェルド[4] 、メイサフィールド[5] の戦いとも)の当時マーシアの王であり、弟のペンダによって殺害されたことになる。
エオワとノーサンブリア王オズワルドの死についての記述は極わずかなため、戦いに至る経緯などは不明である。エオワはペンダと共同でのマーシア王、あるいはペンダの上王だったとする説(これはなぜ『ブリトン人の歴史』がペンダの在位期間をメザーフェルスの戦いの後からとしているかの理由ともなる)や、エオワはオズワルドに従属しておりメザーフェルスではオズワルドと同盟を組んでペンダと戦ったとする説もある[6] 。また、マーシアにはこの頃まで共同王位制の慣習があったことから、ペンダとエオワはマーシアの南と北を別々に統治していた可能性もある。イギリスの中世史家ニコラス・ブルックス(Nicholas Brooks)は、もしエオワが635年からメザーフェルスまでの期間王位に就いていたとしたら、ウェールズがマーシアを襲撃した際に「書物を抱えた修道士たち」が惨殺されたといわれる出来事を説明できるとした。つまりブルックスは、もしエオワがノーサンブリアの傀儡(従属的な王)であったならオズワルドがマーシアでキリスト教布教を促進しようとした可能性があり、従って当時まだ異教徒の国であったマーシアに修道士の存在したことも説明がつく。ペンダはウェールズと同盟関係にあったことは資料から知られており、これと修道士の存在とから、襲撃はペンダ治世の出来事ではなさそうだと述べている。
エオワの血筋は死後も断えずに残り、ペンダの孫チェオルレッド(Ceolred)が死去した716年からは、エオワの子孫であるエゼルバルド、オファ、エグフリスが続いてマーシア王となった。
子孫
『アングロサクソン年代記』にはエオワの血筋である2人のマーシア王、エゼルバルドとオファの系譜が次のように記載されている。
「エゼルバルドはアルウェオの息子、アルウェオはエアワ(=エオワ)の息子、エアワはピュバの息子...」。
エオワの玄孫にあたるオファ(在位757年 - 796年)は、アルウェオとは別のエオワのもう一人の息子、オズモンドの子孫である。
「オファはシングフリスの息子、シングフリスはエアンウルフの息子、エアンウルフはオズモンドの息子、オズモンドはエアワ(=エオワ)の息子、エアワはピバの息子、ピバはクレオダの息子、クレオダはキネワルドの息子、キネワルドはクネッバの息子、クネッバはイッチェルの息子、イッチェルはエオマルの息子、エオマルはアンゲルセオウの息子、アンゲルセオウはオッファの息子、オッファはワルムンドの息子、ワルムンドはウィフトライの息子、フィフトライはウォーデンの息子であった。」[7] [8]
マーシア王の系図
6世紀末のクレオダから、エオワを経て8世紀末のオファ、エグフリスに至るマーシア王の系図。数字は在位年。
脚注
参考文献
- 伝ネンニウス『ブリトン人の歴史』瀬谷幸男 訳、論創社、2019年。ISBN 978-4846018610。
- ベーダ『ベーダ英国民教会史』高橋博 訳、講談社〈講談社学術文庫〉、2008年。ISBN 978-4061598621。
- 大沢一雄「アングロ・サクソン年代記研究-5-訳注-2-」『外国文学研究』第12巻、駒澤大学、1977年3月、1-17頁、NAID 110006161418。