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和田通興

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和田通興
時代 戦国時代
生誕 不明
死没 天文23年(1554年)
官位 三河 (受領名[1] )
主君 河野通宣
氏族 和田氏
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和田 通興(わだ みちおき)は、戦国時代武将河野氏の家臣。和田通俊の孫。伊予国 岩伽羅城(いわがら)主。

河野氏の家臣団内での抗争に関わっていたことが判明しており、小手滝城主・戒能通運に討ち取られた剣山城主である黒川通俊の子・通堯は通運を恨んでいた。その後、通堯は大除城主・大野利直と共同で通運を攻めたが、通興は通運を援助したため、通堯の攻城は失敗に終わった。

天文23年(1554年)に勢力を拡大した通興は主君・河野通宣に従わなくなったため、通宣は棚居城主・平岡房実に通興討伐を命じ、岩伽羅城を攻撃させた[2] 。岩伽羅城は落城し、通興は山ノ内へ逃げたがそこで自害して果てた[2] 。このことは村上吉継(来島氏の家臣)が高野山へ送った書状にも記載されている(高野山上蔵院文書)。

後に一族とされる和田通勝が召し出され、通宣によって岩伽羅城を与えられている[3]

脚注

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  1. ^ 北吉井村誌、170頁
  2. ^ a b 『戦国人名事典』(阿部猛西村圭子編)853頁
  3. ^ 愛媛県史 古代II・中世(昭和59年3月31日発行) 「三 河野氏の衰退愛媛県生涯学習センター

参考文献

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