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保科正経

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保科正経
時代 江戸時代前期
生誕 正保3年12月27日(1647年 2月1日)
死没 天和元年10月3日(1681年 11月12日)
改名 大之助(幼名)→正経
戒名 鳳翔院殿前拾遺會陽太守宜山休公大居士
墓所 福島県 会津若松市院内御廟
官位 従四位下筑前守侍従
幕府 江戸幕府
主君 徳川家綱綱吉
陸奥 会津藩
氏族 保科氏(会津松平家)
父母 父:保科正之、母:聖光院
兄弟 幸松、正頼、媛姫、中姫、将監、菊姫、
正経、摩須、石姫、風姫、亀姫、正純
金姫、松平正容、算姫
正室:前田利常九女・久萬
側室:佐藤氏
養子:松平正容
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保科 正経(ほしな まさつね)は、江戸時代前期の大名陸奥国 会津藩主。官位従四位下筑前守侍従会津松平家第2代。

生涯

保科正之の四男として誕生した。長兄の幸松、次兄の正頼、三兄の将監と3人の兄がいずれも早世したために嫡子となった[1]

万治2年(1659年)に従四位下・侍従・筑前守に叙任し、寛文9年(1669年)に正之の隠居に伴って家督を相続した。正之が死去すると、弔うために土津神社を建立した(延宝3年(1675年)8月19日)。また、領民を疫病から救うために薬草園(後の御薬園)を設けるなど、衛生行政にも配慮した。しかし、母聖光院の影響で母方の従兄弟の藤木弘基とその妹婿となった保科正興が近習、家老に抜擢されている(両者は後に罷免された)。

正経は病弱で子も女児1人しか恵まれなかったため[1] 、延宝8年(1680年)に末弟の正容を養嗣子として、後継に据えた。

天和元年(1681年)に死去。享年36[1] 。家督は正容が継いだ。

系譜

脚注

  1. ^ a b c 野口 2005, p. 51.

参考文献

  • 宮崎十三八 編『保科正之のすべて』新人物往来社、1992年。 
  • 野口信一『会津藩』現代書館〈シリーズ藩物語〉、2005年6月。 
保科家会津藩2代藩主 (1669年 - 1681年)
蒲生家
加藤家
会津松平家
酒井家
1869年、明治政府民政局による直轄地となる。

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