コンテンツにスキップ
Wikipedia

巌谷英一

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

これはこのページの過去の版です。Shibata1961 (会話 | 投稿記録) による 2022年5月18日 (水) 03:47 (個人設定で未設定ならUTC)時点の版 (経歴修正)であり、現在の版 とは大きく異なる場合があります。

Shibata1961 (会話 | 投稿記録)による2022年5月18日 (水) 03:47時点の版 (経歴修正)
出典は列挙するだけでなく、脚注などを用いてどの記述の情報源であるかを明記してください。 記事の信頼性向上にご協力をお願いいたします。(2014年1月)

巌谷 英一(いわや えいいち 1903年 10月10日 - 1959年 7月8日)は、日本の元軍人。1939年5月、日本郵船照国丸にて欧州へ向かう。ドイツ・ベルリンの駐独日本海軍武官室に勤務、航空機製造技術担当。滞独中、技術中佐に進級。1944年、遣独潜水艦作戦によりドイツからジェットエンジン等の技術を日本に持ち帰った。

経歴

東京府出身。1929年(昭和4年) 東京帝国大学工学部船舶工学科を卒業。海軍造兵中尉任官、海軍航空本部の戦闘機担当官となる[1] 局地戦闘機雷電」の開発に関しては、海軍航空本部技術部に三菱重工業堀越二郎を招き要請した[2]

遣独潜水艦作戦(第四次遣独艦。1943年12月にシンガポール出航)によりドイツから、ジェットエンジン・ロケットエンジン等の最新の軍事技術情報を日本にもたらす。

伊号第二九潜水艦により、1944年(昭和19年)4月16日にロリアンを出航[3] 。7月14日にシンガポールに到着したのち、零式輸送機に乗り継ぎ、日本に帰国。ロケット戦闘機メッサーシュミット Me163及びジェット戦闘機メッサーシュミット Me262に関する資料を海軍航空本部に持ち帰った。それら資料は、のちに秋水橘花の開発に活かされた。

1959年7月8日に鎌倉市で没。

脚注

出典

  1. ^ 岡村純『航空秘術の全貌(上)』1976年 執筆者紹介 3ページ
  2. ^ 渡辺洋二『局地戦闘機 雷電』2005年 26ページ
  3. ^ 松岡久光『日本初のロケット戦闘機 秋水』2004年 46ページ

参考文献

  • 巌谷英一、岡村純『日本の航空機〈海軍機篇〉』出版協同社、1960年
  • 巌谷英一、藤平右近『機密兵器の全貌』原書房、1976年
  • 岡村純ほか『航空秘術の全貌(上)』原書房 1976年
  • 柴田一哉『有人ロケット戦闘機 秋水―海軍第312航空隊秋水隊写真史』大日本絵画、2005年
  • 堀越二郎『零戦 その誕生と栄光の記録』講談社講談社文庫〉、1984年
  • 松岡久光『日本初のロケット戦闘機 秋水』三樹書房、2004年
  • 吉村昭『深海の使者』文藝春秋、1974年(文春文庫1976年)
  • 渡辺洋二『局地戦闘機 雷電』文藝春秋〈文春文庫〉、2005年

AltStyle によって変換されたページ (->オリジナル) /