当宗家主
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時代 | 平安時代初期 |
---|---|
生誕 | 不明 |
死没 | 不明 |
官位 | 正五位下・武蔵介 |
主君 | 嵯峨天皇→淳和天皇→仁明天皇 |
氏族 | 当宗宿禰 |
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当宗 家主(まさむね の いえぬし/やかぬし)は、平安時代初期の貴族。姓は宿禰。官位は正五位下・武蔵介。
出自
[編集 ]当宗氏(当宗忌寸、当宗宿禰)は東漢 坂上の一族である漢系渡来氏族で[1] 、後漢第14代皇帝・献帝の三世孫山陽公の後裔とされる[2] 。
経歴
[編集 ]嵯峨朝の弘仁2年(811年)正七位上から五階昇進して外 従五位下に叙せられ、伊賀守に任ぜられる。弘仁3年(812年)阿波介に転じ、弘仁5年(814年)には夷俘を教え諭すために阿波国へ派遣されている[3] 。弘仁6年(815年)河内国を本拠としていた家主を含む一族16人が左京に貫附される。弘仁8年(817年)内位の従五位下叙せられた。
仁明朝の天長10年(833年)武蔵介の官職にあったが、以下を言上し許されている[4] 。
- 武蔵国は管内が広大であるため行路が多難であり、公私の移動に際して飢病に陥る者が多い。そこで多磨・入間両郡の境に布施屋「悲田処」を設置して5棟の屋舎を建て、同国介・当宗宿祢家主以下、少目・大丘秋主以上の6人がそれぞれ公廨(俸禄)を割いて、悲田処で提供する食糧の原資とすることを企画した。割いた公廨は帳簿に記載して出挙を行って、その利息を運営に充当することとし、後任の国司に引き継いで、転用を禁じることとしたい。
官歴
[編集 ]『六国史』による。
- 時期不詳:正七位上
- 弘仁2年(811年) 4月24日:外 従五位下(越階)、伊賀守
- 弘仁3年(812年) 正月12日:阿波介
- 弘仁6年(815年) 7月13日:貫附左京
- 弘仁8年(817年) 正月7日:従五位下(内位)
- 天長8年(831年) 正月4日:従五位上
- 天長10年(833年) 5月11日:見武蔵介
- 承和2年(835年) 正月7日:正五位下