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ハンティ人

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ハンテ人
トムスクのハンテ人の老人
(30,943[1] )
居住地域
ハンティ・マンシ自治管区・ユグラ
ヤマロ・ネネツ自治管区(ロシア)
言語
ロシア語ハンティ語
宗教
シャーマニズムロシア正教会

ハンテ人(ハンテじん、Khante、Khanty、Xanty people)とは西シベリアにあるオビ川流域とイルティシ川東岸側に住むウラル系民族。旧称オスチャーク族。人口は30,943人[2] 。大半がハンテ・マンシ自治管区に在住する。

概要

オビ川付近のテギ(Tegi)村のハンテ人の家族

形質的にはモンゴロイドコーカソイドとの混合型であるウラル人種に属し、ハプログループNが高頻度〜中頻度で見られる。かつては西方に多く住むマンシ人とともに「オビ・ウゴル」と総称され、ハンテ人は「オスチャク(Ostyak。大河の民の意のハンテ語に由来)」として知られていた。自称ハンテは「人」の意。

言語

ハンテ語は、マンシ語とともにオビ・ウゴル諸語に分類され、ハンガリー語とも類縁関係にある。1989年の旧ソ連最後の人口統計ではハンテ語の話者は22,521人中13,615人で母語保存率は60.5%だった[3]

起源・歴史

ハンティとマンシは元来同じ民族であったが、鉄器時代以降紀元後1000年頃に分かれたとされる。古くは騎馬文化を持っていたようであるが、シベリアの環境への適応から、狩猟漁猟トナカイ飼育の生活を導入するようになった。10世紀頃にはロシア人との接触をはじめ、11世紀までには定期的な交易を行っていた。モンゴル帝国の拡大にともない服属し、西シベリア汗国に含まれた。その後、ロシア帝国ピョートル大帝によるシベリア征服で、ロシア帝国による支配を受けた。

居住地

52.8%がハンティ・マンシ自治管区に住む。残りの多くはヤマロ・ネネツ自治管区に居住する。フィン・ウゴル学者の研究により、「ハンテ民族」としての民族区分が設けられ、ソ連の政策によってハンテの名前を冠する行政区分が設置されたことで、ハンテ人は民族として維持されることになった。ソ連時代の行政区分は、1930年に設置された「オスチャク・ヴォグル民族管区」、1940年に「ハンテ・マンシ民族管区」、1977年に「ハンテ・マンシ自治管区」と改称をし、1993年にはロシア共和国のチュメニ州の所属から離脱し、ロシア連邦直属の自治管区となった。

生活様式

生活様式は狩猟・漁猟・トナカイ飼育が基本で、農業は行わなかった。シャーマニズムを信仰し、多くの神々と精霊と交わり、生贄など儀式を行う祭事場にはトーテムの像や神像を安置し、シャーマンを通じて交信した。墓はネネツ人と同様の形式である。基本的に父系社会で、同一の系族(リニージ)内での結婚はできなかった。また試罪法で争いを解決した。

脚注

参考文献

出典は列挙するだけでなく、脚注などを用いてどの記述の情報源であるかを明記してください。 記事の信頼性向上にご協力をお願いいたします。(2016年5月)

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