敵性語
敵性語(てきせいご)は、敵対国や交戦国で一般に使用されている言語を指した語。敵声語と当て字されることもある。
特に日本では、日中戦争(支那事変)開戦により敵性国となったアメリカやイギリスとの対立がより深まる1940年(昭和15年)に入ると[1] 、英語を「軽佻浮薄」(けいちょうふはく)と位置づけ「敵性」にあたるものだとして排斥が進み、米英が完全な敵国(交戦国)となった太平洋戦争(大東亜戦争)突入後はその運動はより顕著なものとなった。
本項はこの日本における「敵性語」について主に詳述する。
内容
法的根拠はなし
敵性語は法律等で禁止されたものではなく、対米英戦争に向かうなかで高まっていくナショナリズムに押されて自然発生的に生まれた社会運動である。そのため分野によって敵性語排除の影響や熱意には大きな開きがあり、また徹底されたものでもなかった。そもそも古くは幕末・明治初期の頃より欧米に範を取り近代化を行っていた日本において、英語を筆頭とする外来語が日本語に与えていた影響は大きく、戦前中の日本国内でも簡単な英単語・和製英語はマスメディア上のみならず、市民の日常において盛んに使用されていたものである。
例として、情報局編集・内閣印刷局発行の『写真週報』や、政府や軍部の検閲を受けたニュース映画『日本ニュース』といったプロパガンダで用いられたメディアでさえ太平洋戦争末期に至るまで英単語は使用されている[2] 。そもそも、『日本ニュース』は1945年(昭和20年)7月1日公開の第254号(戦時下最終号)まで、英語であるニュースをタイトルに使用し続けており(『日本「ニュース」』)、上掲画像の『写真週報』第257号では米英文化を排斥する特集が巻頭で組まれている一方で、この直後に掲載されている銃後の国民生活を説くコラム「間に合せですませる工夫」では「シャツ」「コンビネーション」「チョッキ」などの英単語や和製英語を使用している。そもそも、この『写真週報』第257号で問題にされているのは対米英戦下での銃後における「米英媚態の生活態度」(同号3項)で、攻撃されているのは「あまりにアメリカナイズされた看板や商品および文化(ジャズ等の米英音楽)」であり(「米英レコードをたたき出そう」「これが日本人に売る日本商品だらうか」「(内務省と情報局による)廃棄すべき敵性レコード一覧表」など)、英語そのものを排斥の対象としているわけではない。
太平洋戦争突入後の1942年(昭和17年)7月にキングレコードより発売された「点数の歌」(林伊佐緒・三原純子歌唱。同年2月に政府が実施した衣料切符配給制を題材とする戦時歌謡)の歌詞には、「ハンカチ(ハンケチ)」「エプロン」「ワンピース」「サイレン」「ゲートル」といった多数の英単語等が使用されている。
経済の分野でも英単語の入った商品名やブランド名などが変更された事例があるが、例えば松下電器は「ナショナル」、早川電機工業は「シャープ」のブランド名を冠した製品を戦時中も発売しているなど、徹底したものではなかった[3] 。
このように「敵性語」は圧力を受けた一般民間人や民間団体による自己規制によって排斥された、主に対米英戦たる太平洋戦争当時の戦意高揚運動のひとつにすぎない。
なお第二次世界大戦において、日本は米英だけでなく、中国とも敵対・交戦したが、中国語に由来する漢語については目立った排斥はなく、むしろ英単語の置き換えには漢語式の表記が多く使われた。
教育
国民が「高等教育の現場における英語教育を取りやめるべき」と内閣総理大臣 東條英機 陸軍大将へ要求したこともあるが、東條はこれを国会において「英語教育は戦争において必要である」として拒否している[4] 。ただし戦時下のため英語教育は廃止こそされていないものの縮小されており、中学校・女学校では英語が必修科目から随意科目(選択科目)へと変更され、授業数も大幅に減らされている。
1944年(昭和19年)には、中学校国定教科書『音楽』にイギリス国歌『国王陛下万歳』が掲載されていたことが堀内一雄 衆議院議員によって指摘され、文部省当局は即時削除を命じた。また、英語・音楽以外でも教科書における「敵性箇所」は順次訂正されることになった。当時、国定教科書『英語』の編集委員だった星山三郎の資料によると、以下の表現を「排撃」するよう求められていた。
- 親英・親米的な表現。
- 西暦の多用。
- 米英の物質文明を謳歌する内容。
- 日本を侮辱した表現。
- 英米の文物に最上級の修飾語を付ける表現(例・「世界でいちばん高い建物はエンパイア・ステート・ビルだ」)
- 「Osaka is the Manchester of Japan(大阪は日本のマンチェスターだ)」といった不穏当な比喩・例証。
さらに、外務省では外国人記者に対する記者会見でも、「英語偏重の風潮を駆逐するために」英語の使用を禁じ日本語での記者会見に統一した[5] 。
NHKラジオ第2放送の「基礎英語」も開戦と同時に中断され、降伏まで復活しなかった。
軍内部
民間が主導する排斥運動だったため、その徹底度は組織的・地理的な事情により大きく異なった。軍の整備部隊や工廠、軍需工場などではボルト・ナット・スパナなど日本語にしようがない、もしくは日本語化しても馴染みがないなどの理由で英語排斥は徹底せず公然と英語の用語が使用されることが多かった。特筆に価する点として、日本本土空襲下である戦争末期の1945年3月8日に全国民に公開されたニュース映画である、陸軍省検閲済「日本ニュース 第247号 航技学生の操縦訓練」[6] では、エンジニアパイロットを養成中の陸軍航空部隊および陸軍航空本部が取材されているが、陸軍将校である教官の「自ら飛行機を操縦してみて技術的に一体どんなことを感じたか」との問いに対して、陸軍の訓練生が「はい!ボルトおよびナットの規格をさらに簡単に統一すべきであると思いました」と答えている姿が収められている。
教官「自ら、飛行機を操縦してみて、技術的に一体どんなことを感じたか」
— 「日本ニュース 第247号 航技学生の操縦訓練」
(中略)
教官「よし!ほかにないか」
訓練生「「はい!」」
教官「はい訓練生」
訓練生「はい!ボルト、及びナットの規格を、さらに、簡単に、統一すべきであると、思いました」
教官「よし!みんな、色々感じたと思うが、要はこの操縦の体験を、技術の上に生かして、将来、技術将校としての、識量、技能の養成に一段と努力してもらいたい。そして敵の後についてくれ。終わり」
訓練生一同「敬礼!」
日中戦争勃発後の1937年に陸軍が発行した「軍隊調理法」では、パン、クリーム、シチウ、オムレツ、ドーナツなどのレシピが登場し、レシピの中ではカロリー、ラードなどの外来語も見られる。中には「膨し粉」と書いた後に、カッコ付きでベーキングパウダーという英語を付け足している箇所すら存在する。
イギリス海軍を手本とし、専門用語に英語ないし独自の和製英語を使用していた海軍では特に多用されていた。1944年12月公開の国策映画『雷撃隊出動』には南方の駐屯地内で兵隊が野球をしているシーンがあるが、そこでは「アウト」「ストライク」という言葉が使われている。陸軍でも上述および後述の通り英語は排斥されていたわけではなく、例として陸軍航空部隊では「落下タンク(海軍では増槽と呼称)」「スペリー(照空灯)」などといった英語由来の専門用語の数々や、「ピスト(操縦者の控え所)」といったフランス語は太平洋戦争中も一貫して使用されている。
特筆に価する点として、1942年4月にアメリカ軍が行ったドーリットル空襲に対する陸軍の見解として、大本営陸軍報道部は英語を交えたユーモアあるジョークを用いた以下の内容を発表[7] 、
「指揮官はドゥ・リトル だが、実際(被害)はドゥ・ナッシング」 — 大本営陸軍報道部
1943年(昭和18年)5月20日に日本放送協会 ラジオ第一が放送した陸軍少年戦車兵学校の紹介番組では、教官である陸軍将校が同校生徒に対し以下の内容を訓示し[8] 、
同校長である玉田美郎 陸軍少将も以下の如き発言をしているなど[9] 、陸軍のより直接的なプロパガンダの場においても英語・英単語は当然の如く使用されている。
「(前略)結局は本校教育の神髄は、戦車戦士たるの腕とハートを養うことにあります」 — 陸軍少年戦車兵学校長玉田美郎陸軍少将
さらに太平洋戦争後半である1944年3月に公開された陸軍省後援・情報局選定のノンフィクション国策映画『加藤隼戦闘隊』では、藤田進演ずる軍神 加藤建夫 戦隊長(陸軍中佐)が、日中の敵機迎撃時に「チャンス!チャンス!」と発言したことを題材に、夕食の席上において「部下が笑いながら敵性語排斥運動を皮肉・茶化したジョークを飛ばす」以下のシーンが公然と存在している。
部下「部隊長殿は、さっき飛び出される時、なんと言われたかご存知ですか?(以下、部下は顔に笑みを浮かべながら発言)」
— 映画『加藤隼戦闘隊』劇中にて
加藤「ほぉう、なにか言ったか?」
部下「はぁ、チャンス!チャンス!と言われました」
加藤「そんなこと言ったか?」
部下「二言、チャンス!チャンス!とはっきり言われました。敵の国の言葉を使うだなんて、罰金ですな」
加藤「あいたぁ!そぉーか!(右手を頭にのせながら笑顔で茶目っ気たっぷりに発言)」
一同「(爆笑)」
本作では、「コーヒー」「ウイスキー」「スペリー」「ベランダ」「タイヤ」「フォーク」といった単語も劇中で加藤ら陸軍将校が多用しており、加藤は進出予定地視察帰りにコーヒーミルと豆を土産に購入し部下に挽きたてコーヒーを振舞う、スプーンを常時持ち歩く、スパゲティとマカロニについて薀蓄を語るなど、西欧文化に精通した人物として意図的に強調して描かれている(欧州出張経験もある史実の加藤の人物像を忠実に再現)。さらには、1941年12月24日の会食シーンでは加藤部隊使用の将校食堂に欧米文化であるクリスマスツリーやクリスマスリースが飾られている。なお、本映画のモデル部隊である飛行第64戦隊の部隊歌(軍歌『飛行第六十四戦隊歌(加藤隼戦闘隊・加藤部隊歌)』)の第1番歌詞出だしは「エンジンの音 轟々と 隼は往く 雲の果て」であり、同歌は(本映画の)事実上の主題歌・劇中歌として多用されているとともに、レコード化もされ軍や民間の間では広く親しまれていた(本歌は1940年に同隊員の田中林平 陸軍准尉によって作詞)。
また、戦争も末期である1944年11月に完成・公開された、中国戦線にて速成される寄せ集め軍楽隊をコミカルに描いた国策映画『野戦軍楽隊』(情報局国民映画当選脚本・陸軍全面協力)には以下のシーンが存在する。
藤井陸軍軍曹「輜重兵だな?」
新井陸軍上等兵「はい!」
藤井「入営前の職業は?」
新井「ダンスホール の、バンド をやっておりました!」
藤井「で、担当楽器は?」
新井「トランペット であります」
藤井「よし!」
藤井陸軍軍曹「工兵だな?」
瀬川陸軍上等兵「はい!現職は人絹紡糸工、音楽経験は会社のブラスバンド のメンバーでありました!」
藤井「人絹で帽子を作るのか?」
瀬川「いえ、違います!ボウシ(紡糸)とは糸を紡ぐのであります!」
藤井「ほう、なるほど、すると、特殊技能だな。で、担当楽器は?」
瀬川「トロンボーン であります」
藤井「よし!」
園田陸軍軍楽少尉「新井上等兵」
— 映画『野戦軍楽隊』劇中にて
新井陸軍上等兵「はい!」
園田「ここはダンスホールじゃない。体を振っちゃいかん」(バンド時代の演奏をしてしまう新井に対して発言)
新井「はい!」
陸海軍を問わず、部隊の軍隊符号、装備の略称にはアルファベットが多用されており(支那派遣軍の「CGA」、近衛第2師団の「2GD」、中戦車の「MTK」、対戦車砲の「TA」、機動艇の「SS艇・SB艇」など)。作戦名でもマレー戦、香港戦、フィリピン戦、グアム戦、蘭印戦の日本側名称は、それぞれ「E作戦」、「C作戦」、「M作戦」、「G作戦」、「H作戦」であった。軍国美談でも「チョコレートと兵隊」などの物語が存在する。日本本土空襲たけなわかつ本土決戦も叫ばれ、反米英の感情も最高潮であった太平洋戦争最末期の1945年7月1日に公開された、ニュース映画『日本ニュース 第254号「征空部隊」号』(陸軍の四式戦「疾風」と海軍の雷電を紹介する戦時中最後の『日本ニュース』)劇中では、軍歌『疾風戦闘隊の歌』と『雷電戦闘機隊の歌』がBGMとして使用されているが、それぞれ前者(疾風)では「スコール」、後者(雷電)では「撃墜マーク」という英語由来の単語が歌詞に含まれている。
また、陸軍の参謀本部が中心となって発行した外国向けの宣伝雑誌として、1942年にグラフ誌「FRONT」(英語で戦線の意)を創刊している。これは、中国語、英語、ドイツ語、フランス語、ロシア語など最大15カ国後に翻訳され、敗戦直前まで発行された。
-
「FRONT」1-2合併号(海軍号)表紙。1942年発行
-
「FRONT」3-4合併号(陸軍号)表紙。1942年発行
交通
「昭和 二万日の全記録 第5巻 昭和13年-15年」(講談社、1989年)や大石五雄「英語を禁止せよ」(ごま書房、2007年)では1940年9月、鉄道省が駅構内の英語表記を全面撤廃したとされているが、これは当時の朝日新聞の記事を誤って解釈したもの。その時点では具体案を研究中というだけで、大阪駅など、1941〜1942年でも英語表記が見られた[10] 。
敵性語の言い換え例
野球
野球は敵国アメリカの事実上の国技であることから、禁止を免れるため競技団体自らによる徹底した英語排除が行われた。野球には1890年ごろから正岡子規らが翻訳した、「打者」「走者」「四球」「直球」「飛球」「遊撃手」などの一連の和訳用語がすでに存在していたことも、この運動が特に野球で徹底される理由となった。1940年(昭和15年)には、球団名の日本語名への改称と、ユニホーム表記の漢字表記への変更が行なわれた[11] 。なお、阪急軍は「OSAKA」・「NIPPON」・「HANKYU」とアルファベットが入っている球団旗を使用していたため変更要求が出たが、英語ではないとして拒絶している。
戦争激化にともないプロ野球は1944年(昭和19年)秋から1945年(昭和20年)まで、選抜中等学校野球大会は主催者である毎日新聞社の意向により1942年から1946年まで、全国中等学校優勝野球大会も主催者である朝日新聞社の意向により1941年から1945年まで中止されている。なおこれらの中止はどの競技でもあったことであり野球だけが狙い撃ちされたわけではない。1942年の大日本学徒体育振興大会(いわゆる幻の甲子園)や第13回明治神宮競技大会では他競技とともに実施されている。
急な言い換えのため、審判が「ストライク・・・もとい、よし1本」と言い間違えて観客を笑わせる一幕もあったという[12] 。
- 「ストライク」→「よし[1] 1本」「正球」
- 「ストライク ツー」→「よし2本」
- 「ストライク スリー、ユー アー アウト」→「(よし3本、)それまで」
- 「ボール」→「(だめ[1] )1つ」「悪球」
- 「ファウル」→「だめ」「圏外」「もとえ[1] 」
- 「アウト」→「ひけ[1] 」「無為」
- 「セーフ」→「よし」「安全」
- 「バッテリー」→「対打機関」
- 「タイム」→「停止[1] 」
野球以外のスポーツ
- 「ラグビー」→「闘球[1] 」(とうきゅう)
- 「ゴルフ」→「打球」(だきゅう)「芝球」(しきゅう)
- 「クロール」→「速泳」(そくえい)
- 「米式蹴球(アメリカンフットボール)」→「鎧球[1] 」(がいきゅう)
- 「スキー」→「雪滑」
- 「スケート」→「氷滑」
1942年10月27日には、警視庁保安課によって東京卓球場組合が結成され、卓球試合中の英語コール(ファイブ・テン(5-10)、シックスティーン・オール(16-16))の使用禁止が厳命された。
地名
- 「シンガポール」→「昭南島」(しょうなんとう)...開戦後、日本が占領した地の呼び名が、日本語に改名された例。
- 「中華民国」→「支那」...辛亥革命後、日本側からは「中華」の語を避けて「支那共和国」と呼んでいた。しかし、汪兆銘政権の成立後、「支那」は「中華民国」に少しずつ置き換えられていった。
このほか、昭和16年12月15日の外務省次官会議により、「極東」の表記が「欧米中心的だ」として全面禁止となった。
放送
- 「アナウンサー」→「放送員」(ほうそういん)[13]
- 「マイクロホン」→「送話器」(そうわき)[14]
- 「レコード」→「音盤」(おんばん)
- 「ニュース」→「報道」[15]
- 「臨時ニュース」→「臨時報道」
煙草
このほか、「光」の側面の「HIKARI」表記が「ひかり」に変更された。
飲食物
- 「サイダー」→「噴出水」(ふんしゅっすい)[要出典 ]
- 「フライ」→「洋天」(ようてん)
- 「キャラメル」→「軍粮精」(ぐんろうせい)
- 「コロッケ」→「油揚げ肉饅頭」(あぶらあげにくまんじゅう)
- 「カレーライス」→「辛味入汁掛飯」(からみいりしるかけめし)
- 「ドーナツ」→「砂糖天麩羅」(さとうてんぷら)
雑誌
- 『キング』→『富士』(ふじ)
- 『サンデー毎日』→『週刊毎日[1] 』(しゅうかん まいにち)
- 『エコノミスト』→『経済毎日[1] 』(けいざい まいにち)
- 『ユーモアクラブ』→『明朗』(めいろう)
- 『経済マガジン』→『経済ニツポン』(けいざい にっぽん)
- 『オール讀物』→『文藝讀物』(ぶんげい よみもの)
- 『キンダーブック』→『ミクニノコドモ[1] 』ちなみに「キンダー」はドイツ語である。
もっとも、横文字を使ったすべての雑誌が改名したわけではなく、『経済雑誌ダイヤモンド』、『アサヒグラフ』のように、横文字のまま発行された雑誌もある。
また、内閣情報部(情報局)発行の『週報』『写真週報』の宣伝で用いられていた「国策のパンフレット」「国策のグラフ誌」というキャッチコピーも用いられなくなった。
社名
- 「欧文社」→「旺文社」
- 「後楽園スタヂアム」→「後楽園運動場」
- 「キングレコード」→「富士音盤」
- 「シチズン時計株式会社」→「大日本時計株式会社」
- 「ジャパンタイムズ」→「ニッポンタイムズ」
- 「コロムビアレコード」→「ニッチク(日蓄工業)」
- 「大同メタル工業」→「大同軸受工業」
- 「日本ビクター」→「日本音響株式会社」
- 「ブリッヂストンタイヤ株式会社」→「日本タイヤ株式会社」
- 「ブルドック食品(現・ブルドックソース)」→「三澤工業」[16]
- 「フレーベル館」→「日本保育館[1] 」
- 「ポリドールレコード」→「大東亜蓄音機」
- 「ワシントン靴店」→「東條靴店」
- ビルブローカー→短資会社
- 藤本ビルブローカー証券→藤本証券(現大和証券グループ本社)
- 柳田ビルブローカー→柳田短資(現東短ホールディングス)
- 山根ビルブローカー→山根短資(現セントラル短資)
商品名・ブランド名
学校名
キリスト教系のミッション・スクールなどは、キリスト教的教育を施している上に、校名に創設者である外国人の名前を冠したり、「英」の字を冠したりしていたので、特に名称変更が求められ、1940年10月から1941年4月にかけて行われた。但し、改名後の校名に聖書の言葉を引用して、ささやかな抵抗をする例もあった。
- 「ウヰルミナ女学院」→「大阪女学院高等女学校(現・大阪女学院大学)」
- 「英語教授研究所」→「語学教育研究所」
- 「静岡英和女学校(現・静岡英和学院大学)」→「静陵高等女学校」
- 「東洋英和女学校(現・東洋英和女学院大学)」→「東洋永和女学校」
- 「パルモア女子英学院」→「啓明女学院(現・啓明学院中学校・高等学校)」
- 「フェリス和英女学校(現・フェリス女学院大学)」→「横浜山手女学院」
- 「県当局からの要請で」改名。
- 「プール学院高等女学校(現・桃山学院教育大学)」→「聖泉高等女学校」
- 「聖泉」は、『ヨハネによる福音書』4章14節に因む。
- 「山梨英和女学校(現・山梨英和大学)」→「山梨栄和女学校」
通名・芸名
1939年(昭和14年)の映画法施行の際、映画関係者の登録制が導入された。その後、内務省警保局長の「ふざけた芸名を使うことが流行するのは、国民の生活向上にも、時局柄にもよろしくない。」という談話が発表されたことがきっかけとなり、1940年(昭和15年)3月28日に映画会社・レコード会社の代表者に改名方が厳達され、特に英語を用いた芸名や、宮家、忠臣を揶揄した芸名などは強制的に改名させられた[11] 。
- 「秋田Aスケ・Bスケ」 → 「徳山英助・美助」(とくやまえいすけ・びいすけ、漫才師)
- 「あきれたぼういず」→「新興快速舞隊」(しんこうかいそくぶたい)
- 「朝吹英一とカルア」→「南海楽友」(なんかいがくゆう、ハワイアン)
- 「ヴィクトル・スタルヒン」→「須田 博」(すた ひろし、野球選手)
- 「ヴォーカル・フォア」→「日本合唱団[1] 」(合唱団)
- 「笈田敏夫とノヴェルティ・ハワイアンズ」→「新緑楽団」(しんりょくがくだん、ハワイアン)
- 「大橋節夫とハワイアイランダース」→「南映楽団」(なんえいがくだん、ハワイアン)
- 「本庄克二」→「東野英治郎」(とうの えいじろう、俳優)
- 「香島ラッキー・ヤシロセブン」→「香島楽貴・矢代世文」(かしまらっき・やしろせぶん、漫才師)
- 「コンセル・ポピュレール」→「青年日本交響楽団[1] 」(オーケストラ)
- 「ディック・ミネ [1] 」→「三根 耕一」(みね こういち、歌手)
- 「灰田晴彦とモアナ・グリー・クラブ」→「南の楽団」(みなみのがくだん、ハワイアン)
- 「バッキー白片」→「白片力」(しらかたりき、ハワイアン)
- 「ミス・コロムビア[1] 」→「松原操」(まつばら みさお、歌手)
- 「ミスワカナ [1] 」 → 「玉松ワカナ」(たままつ わかな、漫才師)
- 「リーガル千太・万吉」→「柳家千太・万吉」(やなぎやせんた・まんきち、漫才師)
筆記用具
1943年頃から、トンボ鉛筆は「敵性語の撃滅!」と題した新聞広告で、鉛筆の濃さの表記を以下のように変えると告知した。
- 「HB」→「中庸」(ちゅうよう)
- 「H」→ 「1硬」(こう)
- 「B」→ 「1軟」(なん)
動物
動物園などで表記の変更が行われた。
植物
太平洋戦争勃発後、京都植物園で日本語名の研究が行なわれた[11] 。
- 「カスタービン」→「支那油桐」(しなあぶらぎり)
- 「コスモス」→「秋桜」(あきざくら)
- 「シクラメン」→「篝火草[1] 」(かがりびそう)
- 「チューリップ」→「鬱金香」(うこんこう)
- 「ヒヤシンス」→「風信子」(ひやしんす / ふうしんす)
- 「プラタナス」→「鈴懸樹」(すずかけのき)
音楽
- 「サクソフォーン」→「金属性先曲がり音響出し機」(きんぞくせいさきまがりおんきょうだしき)
- 「トロンボーン」→「抜き差し曲がり金真鍮喇叭」(ぬきさしまがりがねしんちゅうらっぱ)
- 「ヴァイオリン」→「提琴」(ていきん)
- 「コントラバス」→「妖怪的四弦」(ようかいてきよんげん)
- 「ピアノ」→「洋琴」(ようきん)
- 「ド・レ・ミ・ファ・ソ・ラ・シ・ド」→「ハ・ニ・ホ・ヘ・ト・イ・ロ・ハ[1] 」
- 「ドレミ」の語源はイタリア語だが、「軽佻浮薄」だとして言い替えが行なわれた。
その他
日本以外での同様の事例
言語とは、民族を決定する重要な要素の一つであり、過激なナショナリズムと容易に結びつきやすい。
アメリカとイギリス
アメリカやイギリスでも第一次世界大戦中に交戦国だったドイツで使用されるドイツ語に対して、その規模こそは小さかったものの[要出典 ]、やはり似たような排斥運動が起こっている。代表的な例として、当時イギリス王室の名称は「サクス=コバーグ=ゴータ家」だったが、1917年にジョージ5世は敵国ドイツの領邦であるザクセン=コーブルク=ゴータ公国の名を冠したこの名称を避け、王宮のあるウィンザー城にちなんでウィンザー家と改称していることがあげられる。詳細は「ウィンザー朝」を参照。
第二次世界大戦では、日本と交戦状態となったアメリカでは、日系人の強制収容が行われ、特に日系人が多かったハワイでは、日本語によるラジオ放送などが開戦と同時に即刻禁止となった。「Don't speak the enemy's language! Speak American!(敵国の言葉ではなく、アメリカの言葉を喋ろう!)」とのスローガンが掲げられ、日本語、ドイツ語、イタリア語は排斥された[22] 。
アメリカでは2003年に、イラク戦争に反対するフランスに対して反発するアメリカ人が「フレンチフライ(フライドポテト)」のことを「フリーダムフライ」と言いかえようという主張する事例が各地のローカル紙で紹介された。すると、そうした盲目的に保守的なアメリカ人にあきれるリベラルなアメリカ人もまた、これを自虐的に風刺するかたちで冗談半分に同調、その結果「フリーダムフライ」は流行語にまでなった。すると今度はこれをフランスのメディアがアメリカで起こっている運動として報道したため、騒ぎは実態のないまま雪だるま式に肥大するという奇妙な現象になった。
アメリカの政治家ジョン・ケリーはフランス語が得意だが、民主党の大統領候補となった2004年、イラク戦争への対応からフランスとアメリカの関係が悪化していたため、フランス語が得意であることが共和党からの攻撃材料とされた。これをかわすため、ケリーはフランス語を長い間、封印することとなった[23] 。
ロシア
第一次世界大戦でドイツと交戦していたロシア帝国では、首都の名前であるサンクトペテルブルクがドイツ語風であったため、ペトログラードに改名した。後にソビエト連邦によってレニングラードに改名され、元のサンクトペテルブルクに戻ったのは、ソ連崩壊以降の1991年のことである。
ブラジル
第二次世界大戦における連合国のブラジルでもイタリア語に由来する名称の使用が自粛されたため、イタリア系移民によって創立されたサッカークラブ「パレストラ・イタリア」が「パルメイラス」という名称に変更されたという事例がある。ブラジル大統領のジェトゥリオ・ドルネレス・ヴァルガスは、国内において、枢軸国の言語での出版活動は完全に禁止させていた。日本語も禁止の対象であり、そのため日系ブラジル人は自分たちのルーツとなる日本の状況が、終戦を過ぎても詳しくは分からなくなってしまい、勝ち組と負け組の問題を生んだ。
韓国
第二次世界大戦後に建国された韓国では、日本との併合時代に大量に流入した日本語に由来する単語を「倭色」と蔑み、朝鮮語から追放しようとする動き(国語醇化運動)が現在に至るまで続いている。また韓国では、一部の固有名詞を除いて「朝鮮」という呼称を忌避し、「韓国」「韓」「大韓」などと表現する傾向があるが、これは北朝鮮が半島全土の呼称として「朝鮮」を用いていることや、韓国を「南朝鮮」と呼称していることも背景の一つである(大韓民国#国名を参照)。
北朝鮮
朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)では、アメリカ英語由来の言葉がご法度となっており、朝鮮語に言い換えられている[要出典 ]。英語由来の外来語は、イギリス英語の発音に準拠している。例えば、ハンバーガーは、現地語で「ミンチ肉入りパン」となる[24] 。
フランス
フランスは全ての外国語をフランス語表現に言い換え、物の数え方も十進法ではなくフランス独自の二十進法を使い続けている。
出典・脚注
- ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r s t u 『戦争と平和の事典 現代史を読むキーワード』p.49。
- ^ 1945年1月18日公開『日本ニュース 第242号』(補助タンク、プロペラ)等。
- ^ "戦時中の普及型受信機". 日本ラジオ博物館. 2015年4月18日閲覧。
- ^ ジョン・モリス:著、鈴木理恵子:訳『ジョン・モリスの戦中ニッポン滞在記』 小学館 1997年 ISBN 978-4-09-387215-7
- ^ 「英語偏重に一矢 外人記者会見も断然"日本語"」 昭和16年 1月8日付『報知新聞』夕刊
- ^ NHK戦争証言アーカイブス 1945年3月8日公開『日本ニュース 第247号』航技学生の操縦訓練2018年5月4日閲覧
- ^ 淵田美津雄 『真珠湾総隊長の回想 淵田美津雄自叙伝』 中田整一編・解説、講談社、2007年12月。175頁
- ^ NHK戦争証言アーカイブス 陸軍少年戰車兵學校(三)2018年5月4日閲覧
- ^ NHK戦争証言アーカイブス 陸軍少年戰車兵學校(五)2018年5月4日閲覧
- ^ エリエイ(プレス・アイゼンバーン)『レイル』No.100 2016年10月 P4-27高見彰彦「駅名標の移り変わり 寺田町駅の発見から」
- ^ a b c 北村恒信『戦時用語の基礎知識』光人社 1991年(後に文庫化『戦時用語の基礎知識 戦前戦中ものしり大百科』光人社NF文庫 2002年 ISBN 4-7698-2357-6 pp.28 - 30)
- ^ 『後楽園スタヂアム五十年史』
- ^ 『放送研究』昭和17年5月号 日本放送協会
- ^ 21世紀でも警察用無線機のマイクジャックにはこの語が見える。スピーカージャックの方はもちろん「受話器」
- ^ 『放送研究』昭和18年5月号 日本放送協会
- ^ ブルドックソース|会社沿革
- ^ Growth Story
- ^ 第4章|「本日開店」のこころ|株式会社フクナガ
- ^ 漢字表記としては「燐寸」がある。
- ^ 『山梨栄和学院八十年史』
- ^ 江戸東京博物館『東京大空襲-戦時下の市民生活』江戸東京歴史財団 1995年 P.73
- ^ "When Speaking Italian Was a Crime" (英語). About.com. 2012年11月8日閲覧。
- ^ "ケリー米国務長官、とうとうフランス語を披露". AFPBB News . (2013年2月28日). http://www.afpbb.com/article/politics/2931594/10366198 2013年3月1日閲覧。
- ^ "平壌にハンバーガーブーム 外国資本誘致、割高でも行列". 朝日新聞 . (2014年1月12日). http://www.asahi.com/articles/ASG1C3TMWG1CUHBI00D.html 2014年1月12日閲覧。
参考文献
- 大石五雄『英語を禁止せよ 知られざる戦時下の日本とアメリカ』ごま書房 2007年 ISBN 978-4-341-08351-9
- 『戦争と平和の事典 現代史を読むキーワード』 高文研 ISBN 4-87498-162-3