陸軍幼年学校 (日本)
日本の陸軍幼年学校(りくぐんようねんがっこう)は、大日本帝国陸軍において幼年時から将来の将校候補者を養成するために設けられた全寮制の教育機関(軍学校)のこと。プロイセンの Kadettenanstalt に範をとって設立された。本項では、日本の陸軍幼年学校について詳述する。通称・略称は陸幼・幼年校・幼年学校。
概要
中央官衙 |
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主要兵力 |
歴史・伝統 |
その他 |
帝国陸軍の幼年学校には幾度の変容があり、陸軍士官学校が予科・本科制度となった1920年以降では、「陸軍幼年学校」は、将来の将校候補者すなわち陸軍士官学校の予科(「陸軍士官学校予科」、陸士予科。これはのち予士こと「陸軍予科士官学校」に改称し独立)に入校しその予科生徒(予士生徒)とならん者を、13歳から15ないし16歳の若年時に生徒として受け入れ「エリート」として「純粋培養」する、旧制中学校相当の全寮制の教育機関であった。1940年(昭和15年)の昭和15年勅令第89号「陸軍幼年学校令」第一條では「陸軍幼年学校は生徒に陸軍予科士官学校生徒たるに必要なる素養を与うる為軍事上の必要を考慮して普通学科を教授し軍人精神を涵養する所とす」と定義されている[1] 。陸士予科生徒は大別してこの陸幼出身者と、陸幼に進まずに一般の旧制中学校に学んだのちに志願した中学出身者を主な層とする。陸幼生徒は陸士予科生徒と合わせて「将校生徒」とも呼称された。
1896年(明治29年)から1903年(明治36年)までは、上述の陸士予科にのちに改変される学校を「陸軍中央幼年学校」とし東京に1校を設置、上述の陸軍幼年学校とのちになる学校を「陸軍地方幼年学校」と称し仙台、東京、名古屋、大阪、広島、熊本の各地方に設置し、各地方幼年は仙台陸軍地方幼年学校などと地名を校名に冠した。1903年には、「陸軍中央幼年学校」と「東京陸軍地方幼年学校」が合併され、従来の陸軍中央幼年学校は「陸軍中央幼年学校本科」に、東京陸軍地方幼年学校は「陸軍中央幼年学校予科」と改変された。陸軍士官学校が予科・本科制度となる1920年(大正9年)以降に「陸軍中央幼年学校本科」は「陸軍士官学校予科」、陸軍中央幼年学校予科は「東京陸軍幼年学校」、各地の陸軍地方幼年学校も「陸軍幼年学校」(大阪陸軍地方幼年学校の場合は大阪陸軍幼年学校に改称)となる(#歴史)。
1920年代以降の基本的な将校任官の流れとして、陸幼または中学から陸士予科(1896年から1903年は陸軍中央幼年学校、1903年から1920年は陸軍中央幼年学校本科、1920年から1937年は陸軍士官学校予科、1937年から1945年は陸軍予科士官学校)に進んだ生徒は、陸士予科において旧制高等学校に準ずる「普通学」をメインに受け、卒業時に指定されている兵科(兵種)及び原隊の士官候補生となり、約半年間の隊附勤務(この間に形式的なものであるが階級は上等兵から伍長に進級)を経て、軍曹の階級が与えられ今度は陸軍士官学校の本科(陸軍士官学校本科。これはのち陸軍士官学校に改称し、さらに陸軍航空部隊関係の兵科将校を専門的に養成する陸軍航空士官学校も分離独立)に入校。陸士本科(陸士)においてより専門的かつ高度な軍事学を学び、卒業後に原隊において見習士官(階級は曹長)となり数ヵ月後に晴れて任陸軍少尉となった。陸軍航空士官学校へ進む兵科将校候補者(航空兵科将校候補者)の場合、その専門性から予科卒業後の士官候補生としての隊附勤務は無いか短期間で、また本科卒業後の見習士官としての隊附勤務は無い。陸軍幼年学校は帝国陸軍において本流となる現役兵科将校へと進む階段において最初のステップの一つとなる。なお、明治後期からは陸幼卒業者は陸士予科入校試験は免除され、エスカレーター式に進む。
将来の陸軍将校の道が事実上約束されており、若くして軍服に身を包み、規律正しい集団教育を受ける選抜集団たる陸幼生徒は当時の尋常小学生・中学1、2年生男子の羨望の的であり志望者は多く、召募試験は終始高倍率であった。
教育
陸幼3年間の教育では、陸軍教授たる文官 教官による旧制中学校2年生から5年生課程相当の普通学(「学科教育」)を主に、加えて比較的簡素な軍事学(「訓育」)や精神訓話を武官たる生徒監などに学んだ。学課は一般中学と大差はないが、陸幼ではドイツ語・フランス語・ロシア語・英語(英語は1938年より導入)からなる語学、音楽と図画が重視されていた違いがある[2] 。
学費(月謝)は士官学校(陸軍予科士官学校・陸軍士官学校・陸軍航空士官学校・陸軍経理学校)が無償であるのに対して幼年学校は有償であるが、陸海軍の現役 佐官以下または11年以上軍務に精励する准士官以下の職業軍人子息と、陸海軍部内において15年以上軍務に精励する奏任官・判任官 文官(軍属)であれば半特待生として半額となり、戦死者および公務による疾病で死亡した軍人の遺児は特待生として免除とされていた。例として、1938年(昭和13年)時点での月謝は20円であった[3] 。
陸軍幼年学校生徒採用検査では、学科試験と身体検査が実施される。陸幼受験資格は満13歳または14歳という年齢制限のみである。召募試験(学科試験)において求められる実際の学力は旧制中学校1年から2年修了程度であった。学歴制限は無く、高等小学校等修業者であっても試験に合格さえすれば入校は可能である。試験は高倍率であったため陸幼生徒の多くは中学出身者であったが、少数ながら高等小学校出身者も存在する[4] 。さらに、採用検査合格者は入校予定の各陸幼において精密な身体検査を受け、これに改めて合格した者が晴れて陸幼生徒となる。
訓育班
修業期間は約3年間で第1学年、第2学年、第3学年と進み、同期の生徒達は50名定員の訓育班に属し、さらにこの訓育班は1クラス25名定員の学班にわかれる。各訓育班には自習室が設けられ、各生徒には机があたえられる。1938年時点では寝室は10名定員であり、これには後述の「模範生徒」が1名つき起居を共にする。従来は召募人数は1期ごとに50名が定員であったが、満洲事変以降は順次増員されていき、1940年(昭和15年)入校の第44期生では150名となっている。そのため当時の訓育班は「第一訓育班」・「第二訓育班」などとわけられる。1945年(昭和20年)の第二次世界大戦 敗戦時の全国各6校の陸幼には、第47期生までは3個訓育班であったものが、第48期・第49期生で1個訓育班に50-60名の生徒が在籍し多い場合では6個訓育班(1期約300名)まで編成されていた[5] 。
陸幼生徒は士官学校生徒や一般の将兵同様に、休日として日曜と祭日には外出が認められていたほか、長期休暇として「夏休み」と「冬休み」が与えられていた。また大型行事として夏には遊泳演習、秋には運動会と修学旅行があった。酒保も週一日に開かれた。
職員
1940年改正「陸軍幼年学校令」においては陸幼職員として「校長」・「副官」・「学校附」・「教官」・「訓育部長」・「生徒監主事」・「生徒監」・「下士官及判任文官」を置くこととなっている[6] 。概ね「校長」は少将・大佐級、「訓育部長」と「生徒監主事」は中佐級、各「生徒監」は少佐級である。特に訓育班において指導の中心となる「生徒監」は、幼い生徒達にとって特に重要な存在となった。第二次大戦後半中、軍隊では大隊長級の中堅将校たる生徒監は激化する戦地への転出が相次ぎ、末期には1学年に対して1ないし2名という状態になっていったため、新たに尉官の「訓育班長」を各訓育班に置き生徒監を補佐するようになった[7] 。
模範生徒・取締生徒
生徒間においては、第1学年の訓育班では、品行方正かつ学術優秀な第3学年の上級生が特に命ぜられ、20-30名程の第1学年の下級生と同じ寝室・自習室において寝台・自習机を共にし、日夜その指導にあたる「模範生徒(旧称は指導生徒)」と称す制度がある(類似する制度は陸士予科にも存在した)[8] 。「模範生徒」に限らず、下級生は日常において上級生の直接的な指導を仰ぐ。
「貴様と俺」の関係である同学年でも、各班寝室・日直別で輪番制の「取締生徒」と称す制度があり、当番となった取締生徒は学科などにおいて自身の班の引率などを行った。
教官や上級生からの制裁について、日中戦争(支那事変)勃発間もない1938年春に広島陸軍幼年学校(広幼)に第42期生として入校し、3年間を過ごした村上兵衛(陸幼42期卒業後は第57期生として予士・陸士に進み、少尉任官後は近衛歩兵第6連隊の連隊旗手を経て陸士区隊長たる陸軍中尉で敗戦を迎え、戦後は作家となる。広幼第1学年当時の上級生は第3学年第40期、第2学年に第41期生)は皆無であったと証言している[9] [10] 。
幼年学校では、ビンタ――殴られるということは、それ自体、むしろ珍しいのだが、とくに三年生が一年生を殴るということは絶無にひとしかった。
殴るとすれば、だんだん生意気になってくる二年生にたいして、である。
冬休みが過ぎると、三年生が予科士官学校の繰り上げ入学で、鯉城台(母校)を去って行った。
しばらくは、二年生と一年生だけになり、急に威張り出した二年生の天下、しかし一年生の眼からすると、二年生は三年生よりひとまわり人間が小さく見えるので、そこにおのずから火花が散った。
私がはじめて殴られたのもの、そのころである。
一方で、同期生に「全校一」と称されるほどには目立って美男子ないし可愛い顔をしていた、武窓用語における「稚児さん」や「ショーネン」に該当する村上生徒は、その美貌により「模範生徒」を含む上級生からあまりしぼられなかったという自覚を持っている[11] 。
制服
制服(軍服 (大日本帝国陸軍))の服制は時代によって幾度の変容があるが、大改正された1938年の昭和13年勅令第392号「陸軍服制改正」における陸軍幼年学校生徒服制では、上質な生徒専用のものが制定されている。一般の下士官兵用の冬夏衣袴とは全く異なる貼付式の物入(ポケット)、ショルダーループ型の肩章、桜花刻印の釦、鏑袖(袖折り返し)を有し、高品質の生地・仕立てな立折襟服が制定されており、また緋色の玉縁(パイピング)が肩章と、袖(楔形で冬衣のみ)に施された。特に襟には見習士官・士官候補生・陸軍予科士官学校生徒のものに準ずる、伝統の金色の金属星章である特別徽章がつく[12] 。この特別徽章は1943年(昭和18年)の昭和18年勅令第774号「陸軍服制中改正」によって、星章にさらに緋色地で桜花葉刺繍がついた華麗なものとなり、また従来は無地であった肩章には桜花葉のついた金色金属星章が追加されている[13] 。時代によりこの陸幼生徒の襟の星章は有無の違いがあるが、陸幼生徒は軍帽の星章(帽章)と相まって「星の生徒」とも呼称されていた。
さらに士官候補生・陸士予科生徒などと同様に、旭日章と桜花・桜葉を刻印したバックルを備えた帯革(ベルト)を陸幼生徒は着用する。手袋(白手袋)の着用区分も士官候補生(将校候補者)・陸士予科生徒・陸経予科生徒と同じく陸幼生徒も将校に準ずるため、これを使用する(軍手。また、1900年(明治33年)頃からは陸軍地方幼年学校生徒でも外出時に帯剣するようになり[14] 、以降は主に三十年式銃剣を使用した。
歴史
1870年(明治3年)、横浜語学研究所を大阪兵学寮に編入、幼年学舎としたことに始まる。1871年(明治4年)、大阪兵学寮は陸軍兵学寮・海軍兵学寮に分離され、同年東京府に移転した。1872年(明治5年)、陸軍兵学令の改正に伴い陸軍兵学寮幼年学舎から独立する形として幼年学校が設立された。さらに1874年(明治7年)、陸軍士官学校(陸士)が陸軍兵学寮より離れて独立。翌1875年(明治8年)、幼年学校も陸軍兵学寮より分離独立、陸軍幼年学校と改称されたが、1877年(明治10年)には陸軍士官学校に組み入れられ一時消滅した。
1886年(明治19年)4月に教育令に代わって中学校令等が公布されると、翌1887年(明治20年)、陸軍士官学校官制および陸軍幼年学校官制が制定され、陸軍幼年学校は再度設立された。1889年(明治22年)6月、陸軍幼年学校官制を廃止し、陸軍幼年学校条例が制定された。
日清戦争後の1896年(明治29年)5月、陸軍幼年学校条例が廃止され、代わって陸軍中央幼年学校条例および陸軍地方幼年学校条例が制定された。すなわち、陸軍中央幼年学校を東京に1校、陸軍地方幼年学校を仙台、東京、名古屋、大阪、広島、熊本に各1校が陸軍省管轄の学校として設立された。これにより、陸軍地方幼年学校には13歳から16歳で入校して3年間学び、卒業すると今度は中央幼年学校に入校して2年間学ぶという、地方・中央合わせて5年間の修業年限となった。すると、文部省管轄の(旧制)尋常中学校(修業年限5年)と酷似する制度となり、教育界や新聞などから地方幼年学校の廃止論が活発化した。帝国議会でも貴族院で久保田譲が廃止論を唱え、地方幼年学校廃止の建議案を第11回帝国議会に提出する準備もなされたが、衆議院の解散によってタイミングを失ってしまう。また、当時の中学校では学校騒動が問題となっていたこと、中学校の自由教育を受けてきた人材は信用ならないという観念が陸軍側にあったことから、結局廃止には至らなかった。
1898年(明治31年)5月12日、中央幼年学校は東京市 牛込区 市ケ谷本村町 旧野戦砲兵第1連隊跡に新築された校舎に移転した[15] 。1903年(明治36年)、政府の財政難により陸軍中央幼年学校と東京陸軍地方幼年学校の合併が図られた。その結果、同年6月29日、陸軍中央幼年学校条例を全部改正(明治36年勅令第108号)、陸軍地方幼年学校条例を一部改正(明治36年勅令第109号)し、従来の陸軍中央幼年学校を陸軍中央幼年学校本科に、東京陸軍地方幼年学校を陸軍中央幼年学校予科とした。また、旧東京陸軍地方幼年学校の校長職を廃止し、陸軍中央幼年学校の校長が本科・予科の校長を兼ねた[16] 。
1920年(大正9年)、陸軍幼年学校令が制定され、同年8月10日、陸軍中央幼年学校本科を陸軍士官学校予科 に、陸軍中央幼年学校予科を東京陸軍幼年学校に、陸軍地方幼年学校は陸軍幼年学校(名古屋陸軍地方幼年学校の場合は名古屋陸軍幼年学校)とそれぞれ改称された。しかし、1922年(大正11年)のワシントン海軍軍縮条約に代表される世界的軍縮傾向のなか、同年、大阪校が廃止された。続いて1923年(大正12年)名古屋校、1924年(大正13年)仙台校、1925年(大正14年)広島校、1926年(大正15年)熊本校が順次廃止され、東京の陸軍幼年学校のみとなった。しかし翌1936年(昭和11年)には再び広島校が復活。さらに1937年(昭和12年)には仙台校、1939年(昭和14年)には熊本校、1940年には大阪校および名古屋校が順次復活した。例として大阪校は場所を楠木正成の居城近くの千代田村(現:河内長野市)に移し、4月1日に第44期生が入校した。
1945年、太平洋戦争(大東亜戦争)敗戦に伴い、陸軍幼年学校は陸軍士官学校・陸軍航空士官学校・陸軍予科士官学校などとともに廃止され、解散した。
各校
用語
陸幼・陸士・航士・予士には多くの「武窓用語」および「隠語」が存在し、主に陸幼では陸幼生徒を意味する「KD」・「カデ」・「カデット」・「C」を筆頭に、以下を一例とする用語が使用されていた[17] 。初期の帝国陸軍はフランス陸軍とドイツ陸軍に倣っていたことから、フランス語・ドイツ語に由来する用語が散見される。
- 「コンマン」 - 「主席」。
- 「デコン」 - 「最劣等生」。語源はフランス語のデ・コンマン。
- 「KD」・「カデ」・「カデット」 - 「陸幼生徒」・「陸幼出身者」。語源はドイツ語のKadett。
- 「ゴミン(護民)」 - 「模範生徒(指導生徒)」。品行方正かつ学術優秀な上級生が命ぜられて下級生と寝台・自習机を共にし指導した。語源は古代ローマの護民官。
- 「グシャ(具者)」 - 「頭の良い者」。語源は智徳体を兼ね具えた者を指す具者。
- 「スタ」 - 「頭の悪い者」。語源はドイツ語のスタインコップ(Stein = 石、Kopf = 頭)。
- 「アカデミー」 - 「補習授業」。
- 「少年(ショーネン)」 - 「校内の美男子」。語源はドイツ語のシェーネ、あるいは美少年の略称。
- 「少年さわぎ」 - 某が美貌であるとの評判をめぐって評し合う、騒ぐこと。
- 「自信をつける」 - 美貌を鼻にかけること。
- 「稚児さん」[18] - 「少年(ショーネン)」と同義。
- 「ブス」 - 「醜男」。語源はブスケ(武助)。
- 「自信ブス」- 自信ありげに美貌らしく振舞うが、実際はブスであること。
- 「解剖」 - 「大勢がかりで衣類を無理に脱がせて裸にする」こと。日夕点呼終了後から消灯前後にかけて面白半分で行われた。行為自体に深い意味はない。
卒業後の陸軍内の出世においては、陸軍大学校卒業であるかどうか以上に、陸軍幼年学校卒業かどうかが実質的にも形式的にも問われるようになった。出身者による陸軍将校に占める割合も3分の1になった。陸士の予科において、陸幼出身者と中学出身者との間で軋轢が起きることもあり、上記の「P」・「D」などはその象徴である。
校長
歴代校長
- 陸軍幼年学校(第一次)
- 武田成章 大佐:1875年5月2日 -
- (兼)保科正敬 中佐:1875年9月7日 - 1877年1月13日廃止
- 陸軍幼年学校(第二次)
- 藤井包總 工兵中佐:1887年6月 - 1889年6月3日
- (職務取扱)藤井包總 工兵中佐:1889年6月11日 - 7月10日
- (心得)古川宣誉 工兵少佐:1889年7月10日 - 1889年11月2日
- 古川宣誉 工兵中佐:1889年11月2日 - 1890年8月25日
- 山内長人 歩兵中佐:1890年8月25日 - 1892年12月7日
- 佐々木直 歩兵中佐:1892年12月7日 -
- (兼・事務取扱)波多野毅 歩兵大佐:1894年9月13日 - 1895年8月10日
- 粟屋幹 歩兵中佐:1895年8月10日 - 1896年5月15日
- 陸軍中央幼年学校
- 粟屋幹 歩兵中佐:1896年5月15日 - 1896年9月25日
- 谷田文衛 歩兵中佐:1896年9月25日 -
- 伊崎良凞 歩兵中佐:1898年10月1日 -
- 小野安堯 砲兵大佐:1904年9月7日 -
- 竹内武 歩兵中佐:不詳 - 1906年3月9日
- 野口坤之 歩兵大佐:1906年3月9日 - 1908年3月18日
- 久能司 歩兵大佐:1908年3月18日 - 1910年11月30日
- 松浦寛威 歩兵大佐:1910年11月30日 - 1915年8月10日
- 岩崎初太郎 歩兵大佐:1915年8月10日 -
- 長谷川直敏 少将:1920年5月12日 - 8月10日(陸軍士官学校予科へ改組)
主な地方校長
- 橘周太 - 名古屋校長。歩兵第34連隊第1大隊長として、遼陽の戦いで戦死。
- 千田貞季 - 仙台校長。独立混成第2旅団長として、硫黄島の戦いにて戦死。
- 百武晴吉 - 広島校長。第17軍司令官 / ガダルカナル島の戦い参照。
- 阿南惟幾 - 東京校長。陸軍大臣。終戦の前日に陸相官邸で自刃、介錯を拒み、翌朝に絶命。
関係者
第二次大戦敗戦時在校中生徒
- いずみたく(作曲家)- 仙幼
- 加藤秀俊(評論家)- 仙幼
- なだいなだ(作家、精神科医)- 仙幼
- 西村京太郎(作家) - 東幼
- 加賀乙彦(作家) - 名幼
- 水島一也(学者)- 名幼
- 藤岡琢也(俳優) - 広幼
- 國分康孝(カウンセリングサイコロジスト) - 東幼
- 大原健士郎(大学教授) - 東幼
- 杉山邦博(NHKアナウンサー) - 熊幼
- 相倉久人(音楽評論家) - 東幼
中途退校者
脚注
- ^ 陸軍省軍事課 「陸軍幼年学校令改正の件」 1940年3月8日、アジア歴史資料センター、Ref.C01001782700
- ^ 村上 (2003a) p.188
- ^ 村上 (2003a) p.180
- ^ 辻政信大佐等。
- ^ 『陸軍士官学校』 p.120
- ^ 「陸軍幼年学校令改正の件」 1940年
- ^ 『陸軍士官学校』 p.121
- ^ 『陸軍士官学校』 p.131
- ^ 村上 (2003a) p.195
- ^ 村上 (2003a) p.207
- ^ 村上 (2003a) p.208
- ^ 内閣 「御署名原本・昭和十三年・勅令第三九二号・陸軍服制改正」 1938年5月31日、アジ歴、Ref.A03022207000
- ^ 内閣 「御署名原本・昭和十八年・勅令第七七四号・陸軍服制中改正ノ件」 1943年10月12日、アジ歴、Ref.A03022866700
- ^ 『陸軍士官学校』 p.12
- ^ 『官報』第4458号、明治31年5月13日
- ^ 『陸軍幼年学校体制の研究』、165 - 166頁。
- ^ 主に『陸軍士官学校』 pp.27-28. p.60. p.124等。
- ^ 村上 (2003a) p.208
関連項目
- 陸軍予科士官学校(旧陸軍中央幼年学校本科)
- 陸軍士官学校 (日本)
- 陸軍航空士官学校
- 陸軍大学校
- 陸軍少年飛行兵 / 陸軍少年戦車兵 / 陸軍少年通信兵
- 陸上自衛隊少年工科学校 / 陸上自衛隊高等工科学校
- 沼津兵学校
- 海軍兵学校予科 - いわば陸軍幼年学校の海軍版。敗戦間近である1945年4月に開学。
参考文献
- 野邑理栄子『陸軍幼年学校体制の研究』吉川弘文館、2006年(平成18年)。
- 外山操・森松俊夫編著『帝国陸軍編制総覧』芙蓉書房出版、1987年(昭和62年)。
- 編集責任山崎正男(元陸軍少将、陸士33期、終戦時陸軍予科士官学校幹事) 『陸軍士官学校』 秋元書房、1969年。
- 陸軍省軍事課 「陸軍幼年学校令改正の件」 1940年2月~3月、アジア歴史資料センター、Ref.C01001782700
- 村上兵衛 『桜と剣 第一部 わが三代のグルメット』 光人社、2003年9月a
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