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アンゲラ・メルケル

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ファイル:Angela Merkel PD3.jpg
アンゲラ・メルケル

アンゲラ・メルケル(Angela Dorothea Merkel, 1954年 7月17日)は、ドイツの政治家。キリスト教民主同盟(CDU)党首(2000年-)。第8代連邦首相。CDU初の女性党首、ドイツ初の女性の連邦首相である。

略歴

アンゲラ・メルケルは1954年7月17日ハンブルク生まれ。父がキリスト教・ルーテル協会の牧師であり、東ドイツの担当となったため、1954年に東ドイツへ移住する。1973年にカールマルクス・ライプツィヒ大学(現ライプツィヒ大学)に入学、物理学を専攻し、物理学博士号を取得する。なお、ロシア語に堪能なのは幼少時代から勉学を重ねていたからで、東ドイツに滞在経験もありドイツ語が達者なウラジミール・プーチンロシア大統領との関係にも好影響を与えているとみられる。

1989年旧東独崩壊時に《民主主義の出発》の結党メンバーで、同党では報道官を務めた。東ドイツ最後のデメジエール政権では副報道官に就任した。統一後はCDUに入党し、1990年より連邦議会議員、1991年から94年まで女性・青少年問題相、94年から98年まで環境相。98年にコール政権が終幕を迎え、CDUが野党に転じると彼女は同党幹事長に就任。

1999年冬に同党のヤミ献金が発覚すると、メルケルはいち早くヘルムート・コール元首相から距離をとることを党員に訴えた(現在ではコール元首相と和解している)。2000年ヤミ献金問題によるショイブレCDU党首の辞任後に、CDU党首に就任。2000年の時点ではCDU党首とCDU/CSU連邦議会議員団長というショイブレ氏のポストは党首がメルケルに、議員団長がメルツCDU財務担当にと別々に引き継がれたように、旧東独出身のプロテスタント、女性であり、しかも離婚歴のあるメルケルはCDUではリベラル派とみなされ、保守本流からは懐疑の目で見られていた。トップのヤミ献金疑惑にショックを受けたCDUの地方党員・一般党員が、保守本流からは外れるメルケルを党首に押し上げたのである。

実際、州首相の経験もなく、連邦議会議員団長でもなかったメルケルは連邦首相への通例のコースからは外れているし、党内権力基盤も弱かった。《コールのお嬢ちゃん》(Kohls Mädchen)と呼ばれていたのがその証拠の一つで、内閣の旧東独出身者と女性の割合を増やすための数合わせに過ぎないとコール政権時代はなめられていたのである。しかし、メルケルはその後着々と、物理学者らしく常に力の平行四辺形を計算しながら、権力基盤を確実にしていく。2000年の時点では保守本流を代表し、将来の首相候補もと嘱望されていたのは1999年にドイツ社会民主党(SPD)の強かった《赤い》ヘッセン州でアイヒェル州首相(シュレーダー内閣財務相、1999~2005)を打ち破ったコッホ州首相であったが、コッホが率いるヘッセン州CDU支部自体が2000年にヤミ献金問題の直撃を受け、全国レベルで保守陣営を代表できるまでには至っていない。また2002年の総選挙では姉妹政党であるCSUのシュトイバー党首兼バイエルン州首相が保守陣営の首相候補となる。この際に、メルケル党首は首相候補を諦める代わりに、総選挙後に連邦議会議員団長のポストを得るという密約があったといわれている。2002年の総選挙は野党連合の惜敗に終わり、シュトイバー党首のバイエルン初の首相という野望は費えたが、メルケルは選挙後にメルツCDU/CSU連邦議会議員団長からその地位を奪い取る。

SPDと緑の党という国政での連立与党の不人気にも助けられて、州政レベルでCDUはその後確実に政権を奪っていき、2004年のホルスト・ケーラー連邦大統領の擁立にも成功する。昔のように一般党員、地方党員だけではなく、旧西独出身の保守本流の政治家達も一目置かざるを得ないやり手の政治家に成長したのである。更に2005年に入りシュレースヴィヒ=ホルシュタイン州ノルトライン=ヴェストファーレン州の州議会選挙の勝利により、CDU/CSUの首相候補として2005年の連邦議会選挙を初の女性首相候補、初の東独出身候補として戦うことになった。現在ではかつてのあだ名と引っかけて《鉄のお嬢》(eiserne Mädchen)と呼ばれることもある。無論これには、《鉄の女》と呼ばれたサッチャー元英国首相に比しての意味合いがあり、二人には科学者出身、保守系、女性政治家という複数の共通項があるためである。

首相就任

2005年9月18日に行われた総選挙では、CDUの党首として戦った。メルケル率いるCDU/CSU連合は与党のSPD(ドイツ社会民主党)に4議席差で勝利したものの、改選前より議席を22議席も減らしたために自由民主党(FDP)と合わせても過半数には届かず、緑の党との連立協議にも失敗。政権運営についてSPDとの協議が続いた。

10月10日、CDU、CSU、SPDは1960年代のキージンガー政権以来の大連立を組むことを決定し、11月23日にようやくメルケルが連邦宰相(首相)に就任した。これにより、ドイツ史上初の女性、そして統一後初の東ドイツ出身の連邦宰相が誕生した。

就任当初から積極的な対露・対米外交を展開して高支持率をたたき出し、2006年3月の3州議会選挙でも勝利して、連立政権はひとまず順調にスタートをきった。しかし、SPDとCDU/CSUの主張する政策は大きく異なっており、財務大臣などの重要な閣僚ポストをSPDへ譲ったこともあって、とりわけ先送りされている健康保険制度改革や法人税率改革などの内政面の課題に関して、政権の先行きは不透明な状態が続いている。

関連項目

外部リンク

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