富塚宗綱
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富塚 宗綱(とみづか むねつな、天文12年(1543年) - 慶長18年(1613年)[1] )は戦国時代の武将 [2] 。通称は亀松、又市郎、孫兵衛尉、近江守[2] 。天文の乱で討ち死にした富塚仲綱の子[2] 。伊達輝宗・政宗父子の家臣 [2] 。陸奥国 伊達郡 森山城城主[2] 。子に信綱 [1] 。
生涯
天文12年(1543年)[1] 、富塚仲綱の子として生まれる[2] 。宗綱が幼少の頃、富塚家は当主・富塚仲綱が伊達稙宗に属して討ち死にし、伊達晴宗によって所領を没収されるが、天文22年(1553年)に懸田俊宗の懇願によって宗綱は所領の一部を返還された[2] 。その後、伊達輝宗・政宗父子に従って人取橋の戦い [1] などの緒戦に参加し、この功績から輝宗より宿老に命じられた[2] 。文禄の役では岩出山城の留守居を務めている[2] 。政宗の治世のうちに没したという[2] 。