天正伊賀の乱
天正伊賀の乱(てんしょういがのらん)は、北畠信意と伊賀国豪族連合との戦いの総称である。天正6年(1578年)から天正7年(1579年)の戦を第一次、天正9年(1581年)の戦を第二次とし区別する。第二次伊賀の乱での伊賀衆の敗戦により、伊賀国は焦土と化した。
第一次天正伊賀の乱
第一次天正伊賀の乱 | |
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戦争:安土桃山時代 | |
年月日:天正6年(1578年) - 天正7年(1579年) | |
場所:伊賀国 | |
結果:伊賀衆の勝利 | |
交戦勢力 | |
織田軍 | 伊賀衆 |
指導者・指揮官 | |
北畠信意 | 百地三太夫 |
戦力 | |
8000 | 8000〜9000 |
損害 | |
不明 | 不明 |
北畠家の養子となっていた織田信長の次男北畠信意[1] は、天正4年(1576年)に北畠具教ら北畠一族を殺害し伊勢国を掌握すると、次は伊賀国の領国化を狙っていた。1578年(天正6年)2月、伊賀国の郷士 下山平兵衛が信意を訪れ、伊賀国への手引きを申し出た。信意は同年3月に滝川一益に北畠具教が隠居城として築城した丸山城の修築を命じた。
これを知った伊賀国郷士衆は驚き、丸山城の西にある天童山にスパイを送り、築城の様子をうかがった。この時の様子が、
—伊賀旧考
とあり、3層の天守や天守台は石垣で固められ、また二の丸への登城道は9回折れているなど、規模壮大な城であったと記されている。
これに驚いた伊賀郷士11名が集まり、「完成までに攻撃すべし」と集議一決した。丸山城周辺の神戸、上林、比土、才良、郡村、沖、市部、猪田、依那具、四十九、比自岐衆が集結し、同年10月25日に集結した忍者たちが総攻撃を開始した。不意を突かれた滝川雄利軍や人夫衆は混乱し、昼過ぎには残存兵力を糾合し伊勢国に敗走した。
翌天正7年(1579年)9月16日、信意は8000の兵を率いて伊賀国に3方から侵攻したが、伊賀郷士衆は各地で抗戦し信意軍を伊勢国に敗走させた。
信意軍は殿軍の最中に重臣の柘植保重を討たれるなど被害は甚大で、信意が無断で伊賀に侵攻し、さらに敗戦したことを知った信長は激怒し、信意を叱責した。また、この信意の敗戦を受け、信長は忍者に対し警戒心を抱き、後の第二次伊賀の乱へ繋がっていく。
第二次天正伊賀の乱
第二次天正伊賀の乱 | |
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戦争:安土桃山時代 | |
年月日:天正7年(1579年) - 天正9年(1581年) | |
場所:伊賀国 | |
結果:織田軍の勝利 | |
交戦勢力 | |
織田軍 | 伊賀国人衆 |
指導者・指揮官 | |
織田信長 北畠信意 滝川一益 丹羽長秀 蒲生氏郷 筒井順慶 など |
滝野吉政 町井清兵衛 |
戦力 | |
5万(1万?) | 9000? |
損害 | |
不明 | 不明 |
天正9年(1581年)4月、上柘植の福地宗隆、河合村の耳須弥次郎の2人が安土城の信長の所に訪れ、伊賀攻略のさいは道案内をすると申し出た。
そして再び北畠信意を総大将に5万の兵で伊賀国に侵攻した。『信長公記』『多聞院日記』には9月3日に攻撃開始との記述があるが、『伊乱記』では9月27日に6か所(伊勢地口からは信意、津田信澄、柘植口から丹羽長秀、滝川一益、玉滝口からは蒲生氏郷、脇坂安治、笠間口から筒井順慶、初瀬口より浅野長政、多羅尾口から堀秀政、多羅尾弘光)から攻撃したと記述されている)『多聞院日記』の記述では総勢1万余とされている。同月6日より戦闘が開始され、各地で進撃し同月11日にはほぼ伊賀国を制圧した(信長公記)。
奈良の大倉五郎次という申楽太夫が柏原城に来て、和睦の仲介に入り、惣名代として滝野吉政が28日早朝に信意に会って、城兵の人命保護を条件に和睦を行い、城を開けた。『信長公記』ではこの停戦時期を9月11日としている。『多聞院日記』では「十七日、教浄先陳ヨリ帰、伊賀一円落着」としており、日程のずれはあるが、当時の伝聞を集めた記録として信頼性は高い。
この柏原城が落ちた時点をもって天正伊賀の乱は終わりを告げた。
本能寺の変発生直後
第三次天正伊賀の乱 | |
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戦争:安土桃山時代 | |
年月日:天正10年(1582年) | |
場所:伊賀国 | |
結果:沈静化 | |
交戦勢力 | |
- | 伊賀国人衆 |
指導者・指揮官 | |
なし | 百地丹波 |
戦力 | |
- | 不明 |
損害 | |
- | 不明 |
天正10年(1582年)、伊賀国は平定され織田氏の支配下にあった。しかし本能寺の変で織田信長が横死したのを知ると、百地丹波は再び伊賀国を独立させるために挙兵した。しかし、疲弊していた伊賀の地に十分な兵力は無く、失敗に終わった。
脚注
関連作品
- 映画「天正伊賀の乱」(2005年)