コンテンツにスキップ
Wikipedia

常紋トンネル

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

これはこのページの過去の版です。瑠璃川 (会話 | 投稿記録) による 2013年11月18日 (月) 15:18 (個人設定で未設定ならUTC)時点の版 (→‎建設とタコ部屋労働 )であり、現在の版 とは大きく異なる場合があります。

瑠璃川 (会話 | 投稿記録)による2013年11月18日 (月) 15:18時点の版 (→‎建設とタコ部屋労働 )
常紋トンネル 生田原方

常紋トンネル(じょうもんトンネル)は、北海道旅客鉄道(JR北海道)石北本線にある単線 非電化の鉄道トンネルである。生田原駅金華駅の間にあり、常呂郡(旧・留辺蘂町、現・北見市)と紋別郡(旧・生田原町、現・遠軽町)を結ぶ常紋峠下を通る。本トンネルの金華駅側には常紋信号場がある。

概要

同じ石北本線の石北トンネル(北見峠)同様、人家の全くないこの区間は同線の難所の一つであり、標高約300 m、全長507 mのトンネルを掘るのに3年を要し1914年(大正3年)に開通した。同年には標準軌 複線大阪電気軌道(現・近畿日本鉄道)奈良線生駒トンネル(3,388 m)が33か月の工期で完成しており、10年以上前の1902年(明治35年)には既に中央本線笹子トンネル(4,656 m)が71か月の工期を要しながらも完成している。これらに比べ本トンネルは工期が長く、日本政府による開拓・道路整備等が十分でなかった当時の常紋峠における難工事ぶりが偲ばれる。

建設とタコ部屋労働

殉職者追悼碑

本トンネルは凄惨過酷なタコ部屋労働で建設されたことでも有名である。施工当時、重労働と栄養不足による脚気から労働者は次々と倒れ、倒れた労働者は治療されることもなく現場近くに生き埋めにされたという。

1968年(昭和43年)の十勝沖地震で壁面が損傷し、1970年(昭和45年)にその改修工事の際、壁から立ったままの人骨が発見された。また入口付近でも大量の人骨が発見された。人骨の一部には外力による損傷が見られたという。これにより「常紋トンネルには人柱が埋まっており、彼らの亡霊がトンネルや信号場に出る」という鉄道員間の噂の一部、「常紋トンネルには人柱が埋まっている」が事実であることが確認された。

1980年(昭和55年)、当時の留辺蘂町(現在は広域合併により北見市に編入)によって金華駅西方の高台(金華小学校跡地)に「常紋トンネル工事殉難者追悼碑」が建てられた。

本トンネルを始めとする北海道の土木事業における労働者については、小池喜孝『常紋トンネル―北辺に斃れたタコ労働者の碑』(朝日新聞社)に詳しく記述されている。同書は1977年(昭和52年)に刊行され、1991年(平成3年)に朝日文庫として再刊された(ISBN 4022606320)[1]

蒸気機関車撮影の名所

急勾配の地に作られた常紋信号場および隣接する本トンネルは、かつてはD51 重連撮影・生録音の名所として鉄道ファンの間で知られていた(当時、撮影に訪れる鉄道ファンの便宜を図って、付近に定住者のいない常紋信号場で客扱いが行われた(仮乗降場も参照))。

脚注

  1. ^ 小池の著作はこちらのサイトでも閲覧できる。

外部リンク

座標: 北緯43度50分23.4秒 東経143度32分43.4秒 / 北緯43.839833度 東経143.545389度 / 43.839833; 143.545389

AltStyle によって変換されたページ (->オリジナル) /