みちのくプロレス
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種類 | 株式会社 |
---|---|
略称 | みちプロ |
本社所在地 |
日本の旗 日本 〒020-0151 岩手県 岩手郡 滝沢村大釜字白山50-20 |
設立 | 1992年 10月1日 |
業種 | サービス業 |
法人番号 | 8400001013085 ウィキデータを編集 |
事業内容 | みちのくプロレスの興行、所属選手のマネージメントおよび関連企画の運営 |
代表者 | 代表取締役 社長:サスケ |
主要子会社 | みちのくエンタテイメント有限会社 |
外部リンク | http://www.michipro.jp/ |
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みちのくプロレスは東北地方を中心に活動する日本のプロレス 団体。略称は「みちプロ」。
概要
1992年、ザ・グレート・サスケを中心としてユニバーサル・プロレスリングの所属選手によって設立。「地域密着型プロレス団体」を標榜し、東北六県をメインに活動している。
なお、飛び技を主体にしたメキシカンスタイルを持ち味とするため、次の2点で他の団体と異なる。
- リング周囲に衝撃吸収用のマットが敷かれていない。これはメキシコでもマットを敷かないため。そのため、場外で投げ技を食らうとダメージが大きくなる。
- 団体のローカルルールとして、タッグマッチにおいて自分のパートナーが場外に出た場合に控えの選手はタッチしなくても試合権利を得てリングに入り試合に加わることができる。団体スタイルの都合上、試合権利を持つ選手が飛び技を使って場外に出てしまうことが多いために試合が膠着状態になることを防ぐと共に試合展開をスピーディーにするためのルールである。また、そのルールに即した形で控え選手は待機中タッチロープを持っていない。
略歴
旗揚げ前
- ユニバーサルに在籍中から東北地方でのプロレス振興を構想していたザ・グレート・サスケは、1992年 10月1日付で株式会社みちのくプロレスを岩手県 盛岡市に設立した(初代社長はサスケの父親である村川清兵衛)。当初はユニバーサルの地方プロモーターの色合いが強かったが、この頃から新間寿恒代表らユニバーサル経営陣と選手との間に紛争が発生し(試合中の負傷に対する補償問題が端緒とされる)、翌1993年に選手はグラン浜田を残してユニバーサルを退団、みちプロに入団した。
みちのくプロレス旗揚げ
- 1993年 3月16日、岩手県矢巾町民総合体育館にて旗揚げ戦が敢行。来日予定のルチャドールらのビザが下りず、急遽足立区に住んでいたウェリントン・ウィルキンスJr.を代わりに参戦させることになる。初めは『ニュースステーション』をはじめ各種メディアで取り上げられ話題となるが、その多くが東北の片田舎で細々と活動するユニークな弱小団体といった内容で、初の後楽園ホール大会での売上金持ち逃げ事件(1994年 2月4日、興行後に大会主催者が売上金を持ち逃げし行方をくらます)、また暴力団との関係騒動により警察の圧力で大会が中止になったりと、「長続きはしないだろう」という見方が大勢を占めていた。しかし、サスケが新日本プロレスの『スーパーJカップトーナメント』にて日本ジュニア界の第一人者獣神サンダー・ライガーを破って準優勝、また同年新日本で行われたベスト・オブ・ザ・スーパージュニアにおいてもみちプロ所属のスペル・デルフィンが準優勝。みちプロ本隊も新日マットで対抗戦を行うなどの活躍でマイナー団体であるみちプロは一気に全国区の人気となる。メジャー団体を自認する新日所属レスラーの一部からは反感を買ったが上層部からの評価は良く、『ワールドプロレスリング』で解説を務めていたマサ斎藤は「みちのくプロレスのルーチャですか?こんな素晴らしくて楽しいものとは思わなかったですね。みちのくの選手の若いエネルギーを感じた。」と発言。当時の現場責任者長州力は、TAKAみちのくのトップロープに乗ってからのプランチャを「お前は宇宙人か」と評していた。新日マットでの活躍により、みちプロ所属レスラーは他団体からひっぱりだこの状態となり、ヒールユニット「海援隊★DX」と正規軍との抗争などで会場はどこも常に超満員になる。
選手離脱・分裂
- 1997年、獅龍が海外へ。後にTAKAは米団体WWF(現WWE)と契約。
- 1998年、東郷、テイオー、船木がWWF(現WWE)へ移籍する。
- 1998年前半は、サスケの膝手術による長期離脱で興行を休止するが、この期間、選手組合により存続を発表。
- 1998年秋、名タッグとよばれたサスケ・デルフィン組に亀裂[1] 。サスケは路頭に迷ったあげく[2] 青いマスク「SASUKE」としてルードへ転向[3] 。「SASUKE組」として正規軍と対決する。
- 1999年1月17日、スペル・デルフィン、愚乱・浪花、薬師寺正人、星川尚浩、瀬野優、松井幸則(レフェリー)、木川勇人(練習生)が記者会見を開き、団体の方向性に亀裂が生じ退団を正式発表。デルフィンらは会見中に乱入したSASUKEの声にも無視し退席。その場でSASUKEとテッド・タナベが抱き合い号泣した。浪花は後日、デルフィンと別れ、みちのくにフリーで復帰している。
- 改心したサスケは正規軍として、ルード軍と抗争。離脱危機に駆けつけたTAKAみちのくも合流。主力選手が抜け苦しい経営を迫られることとなり、以降はフリー選手を中心とした興行となる。
- 後に正規軍へ合流したディック東郷だったが、自らルード軍「F.E.C」を結成。サスケもSASUKE組を再集結させ、ルード対ルードと言う反則だらけの抗争が勃発する。
- 2003年、サスケが岩手県議会議員に当選し、新崎人生が社長に就任。サスケは会長に退く。
- 同年11月、10周年記念大会がディファ有明で開催され、ボブ・サップが参戦。メインでは、サスケvsデルフィンが実現しデルフィンが勝利するも、サスケは無言で立ち去る。
- 元F.E.Cの日高郁人、藤田穣、マッチョパンプ等で「スカル&ボーンズ」を結成。F.E.Cと抗争を繰り広げ、最終的に初となる金網デスマッチにてF.E.Cが勝利。この日を最後にスカルは解散。F.E.Cはみちのくから離脱する。これに合わせ、2004年8月でフリー選手との参戦契約を打ち切る。
闘龍門X参戦・仙台移転
- 2004年7月から闘龍門X出身の選手を中心とした興行形態に切り替え「新生みちのくプロレス」として始動。同月より、マンゴー福田、パイナップル華井、ムルシエラゴ、村上学が参戦。10月より、野橋真実、ランボ三浦、佐藤秀、佐藤恵、謎のマスクマンとしてMICHINOKUレンジャー金、MICHINOKUレンジャー銀、コモ・レオパルド、エステ・ハグアルが参戦。11月に南野たけし、12月より石森太二が参戦。みちのく新レスラーとして、遮那王、ラッセ、景虎、大間まぐ狼が、デビューする。
- 2004年9月26日 ハッスルとのコラボレーションとして、安比高原スキー場にて『ケッパレ1』を開催。メインでサスケは小川直也と組み、復活した白使とジャイアント・シルバ組と対戦しサスケ組が勝利した。
- 2005年7月、宮城県 仙台市にみちのくエンタテインメント有限会社 [4] を設立、本社機能を移す。同時にみちのくプロレスのシンボルマーク(CI)も変更された。みちのくプロレスの女子部にあたるセンダイガールズプロレスリングの旗揚げも発表。今までは東北地区の巡業が中心だったが、北海道、四国、九州を含めた全国規模の巡業を行うようになる。Gammaの呼びかけにより、景虎、佐藤兄弟、まぐ狼がSTONEDを結成。
- 同年、119・小暮隊員、119・井上隊員、110・片上隊員、ダイナマイト東北が所属選手として参加。
- 2006年、デルフィンと新崎人生のシングルマッチをきっかけに大阪プロレスとの抗争が始まる。南野たけし、佐藤兄弟が大阪マットに参戦。約7年半振りにデルフィンがみちプロマットへ上がった。その際、反則行為やタナベの高速カウントから観客が激怒し、各会場ではリングに物が投げ込まれた。リーグ戦『鉄人』にタイガースマスク参戦。みちのくに在籍していたGAINAとテッド・タナベが大阪プロへ移籍。9月、抗争に無関心のサスケは、デルフィンの名指した呼びかけに激怒し10月8日に東北ジュニアタイトルマッチが決定する。波乱がありながらもサスケは見事勝利を飾り、確執のなかサスケとデルフィンは握手を交わした。しかし防衛戦にてサスケはGAINAにベルトを奪取される。12月、南野武が故郷・ハッピー星に帰還するため、インディーサミットが地球最後の試合となる。
- 2007年、GAINA、ゼウス、テッド・タナベが参戦しみちプロリングで暴れる。新ヒーローとしてピンクスーツをまとったHAPPY MANが登場する。怪我による長期欠場中の景虎はSTONEDから追放されるが、復帰後は、ラッセとのコンビでみちのくふたり旅を制覇。7月、野橋真実がプロデュースする「OOGAMANIA」開催。野橋と新人レスラーを中心として3試合程度の興行を敢行する。
- 2008年、南野タケシが復帰。議員辞職したサスケは、本格復帰を機に佐藤兄弟との宇宙大戦争が再勃発する。フジタJr.ハヤトがルードに寝返り、軍団名を「九龍(クーロン)」とした。サスケは義経の持つ東北ジュニアに新旧エース対決として激戦を繰り広げ義経は防衛に成功する。八代目ダイナマイト東北が登場。
- また設立15周年を記念し、後楽園大会を皮切りに、東北を回る「15周年ノスタルジックツアー」開催。旗揚げ以来、みちプロに縁のあるレスラーが続々参戦し、大盛況を納めた。
岩手再移転 - 現在
- 2009年8月31日、取締役会において株式会社みちのくプロレスの代表取締役社長にサスケ[5] が復帰。新崎前社長はコミッショナーに就任し、みちのくエンタテイメント有限会社の社長は引き続き新崎が務めることも合わせて発表された。これに伴いみちのくプロレスの運営会社が宮城県のみちのくエンタテイメント有限会社から岩手県の株式会社みちのくプロレス[6] に戻る。
- 2011年 東日本大震災により、みちのくプロレスも選手・スタッフなど避難所で暮らすなどを強いられる。毎年恒例だった九州巡業ツアー「思えば遠くへ来たもんだ『〜酒宴〜』」は当初震災直後と言うこともあり中止の予定だったが、東北の現状を知って頂く・支援を求め例年通り開催した。巡業バス・トラックは九州まで山形越えのルートで九州まで行った(東北自動車道などが崩壊していた為)
- 2012年、初興行では矢巾2DAYSはカード当日発表となった。また拳王が新たにルード軍を結成し、野橋、日向寺、シュウ・ケイ(本年度よりバラモン名義へ)が結託。南野卍丸は舎人一家とし、事実上「九龍」は解散となった。
タイトルホルダー
みちのくプロレスが管轄する王座と保持者(2012年6月)
- 東北ジュニアヘビー級王座 - フジタ"Jr"ハヤト(第16代)
- 東北タッグ王座 - ラッセ&剣舞(第16代)
- 2人のトータルウェイト200kg以内。
みちのくプロレスが開催するリーグ戦と覇者
- 鉄人(てつんちゅ) - フジタ"Jr"ハヤト(2009年)
- みちのくふたり旅 - ヤッペーマン1号&ヤッペーマン2号(2010年)
みちのくプロレスが関わる他団体管轄の王座と保持者
- UWA世界ウェルター級王座 - 南野タケシ(第35代)
- UWA世界タッグ王座 - ツトム・オースギ&ヘラクレス千賀
現在の所属・参戦選手&スタッフ
※(注記)フリーランス、他団体所属は省略。
- 正規軍
- 新崎人生
- ザ・グレート・サスケ
- ウルティモ・ドラゴン
- 気仙沼二郎
- 大柳錦也
- ラッセ
- ヤッペーマン1号
- ヤッペーマン2号
- 剣舞
- 佐々木大地
- 郡司歩
- 第八代ダイナマイト東北 (兼最高コミッショナー、兼マウンテンキング最高店長)
- しばてん ※(注記)限定参戦
- めどち ※(注記)限定参戦
- 精霊(レイ) ※(注記)限定参戦
- 義経 (旧:遮那王)[7]
- 清水義泰 ※(注記)長期欠場中
- ハヤト軍
- フジタ"Jr"ハヤト
- 南野タケシ 舎人一家
- 卍丸 舎人一家
- Ken45 ゚
- 地域限定レスラー
- オオガマックス ※(注記)OOGAMANIA限定
- つばさ ※(注記)山形大会
- 獅子王 ※(注記)山形大会
- DEWAロックマン ※(注記)山形大会
- 東大ラーマン ※(注記)徳島大会、他
- 大町マン ※(注記)秋田大会
- その他
- マスク・ド・植樹マン ※(注記)植樹祭などのイベント限定
- カラスコムーチョ
- トレーナー
- 瀧澤許浚 (取締役、マウンテンキング店長、みちのく治療院院長)
過去の所属選手&スタッフ
- 退団
- ディック東郷 (旧:Sato - 国内引退・海外転戦中)
- グラン浜田 ( - MWF)
- 阿蘇山 ( - 九州)
- つぼ原人
- 西田ヒデキ (現:はやて - レスリングドリーマーズ)
- 愚乱・浪花
- スペル・デルフィン ( - 沖縄)
- タイガーマスク ( - 新日本)
- 星川尚浩 ( - ZERO1)
- 中島半蔵 (現:HANZO - レッスルゲート)
- 菅本嘉人 (現:Gamma)
- MEN'Sテイオー (旧:テリー・ボーイ - 大日本、)
- 獅龍 (現:カズ・ハヤシ - 全日本)
- TAKAみちのく ( - K-DOJO)
- 船木勝一 (現:FUNAKI - WWE)
- 斎藤誠 (現:K-ness. - DRAGON GATE)
- マッチョ★パンプ(ミステル・カカオ)
- 藤田穣 (現:藤田ミノル - 東京愚連隊)
- 119・井上隊員 (現:シャドーフェニックス、 - DPE)
- 景虎 (現:KAGETORA - ・フリー)
- 男盛 (アレクサンダー大塚 - AO/DC)
- GAINA (シーサー王、旧:湯浅和也)
- 三上恭平 ※(注記)練習生(現:MIKAMI - DDT)
- 望月享 ※(注記)練習生 (現:横須賀享 - DRAGON GATE)
- 斉藤義之 ※(注記)練習生 (現:スペル・シーサー - DRAGON GATE)
- 木川勇人 ※(注記)練習生 (現:怪人・ハブ男 - 沖縄)
- ミスター・トヨタ (レフィリー、デルフィン軍マネージャー、海援隊マネージャー)
- 引退
- ビーフ・ウェリントン (旧:ウェリントン・ウィルキンスJr.)
- 薬師寺正人 ( - 大阪)
- 井上治
- 山田英樹
- 瀬野優 (現:大王QUALLT - 大阪)
- 北海珍念
- 岡部和久
- 110・片上隊員 (旧:GALLARDO)
- ダイナマイト東北 (旧:ランボ三浦、119・小暮隊員)
- 愛澤No.1 (旧:相澤孝之)
- サイキック
- ラヨデネグロ
- ロンスー
- レフェリー
- リングアナウンサー
パチンコ・パチスロ
- パチスロ・大山鳴動 漢みちスロ!(2006年・ウィンネットテクノロジー)
脚注
- ^ 1998年9月23日の山形県 酒田市営体育館でのマスク剥ぎマッチで、敗れた選手のマスク剥ぎをサスケが止めたことにより、デルフィンらと乱闘となる。
- ^ 1998年9月27日 愛知県 名古屋市の野外イベント会場において、試合中の場外乱闘で警察沙汰となり、コミッショナーから「ザ・グレート・サスケ」のリングネーム使用停止等の処分をうける。デルフィンらの大量離脱後の1999年2月に解除。
- ^ リングネーム使用禁止の解除後もたびたび復活している。
- ^ 現在はセンダイガールズプロレスリングの運営会社で、東北地方では南東北(宮城県・福島県・山形県)を営業エリアとする。
- ^ 仙台時代はみちのくエンタテイメントに所属せず、大会毎のフリー契約だった。
- ^ 盛岡市材木町から第一道場、選手寮のある滝沢村大釜に社屋を移転、北東北(岩手県・青森県・秋田県)を営業エリアとする。
- ^ 「Sugi」としてAAAに移籍するも、みちのく退団扱いではない。
- ^ 2012年よりバラモン兄弟名義で活動開始。それまでは佐藤兄弟
映像・音楽作品
CD
- みちのくプロレス(1993年)
- みちのくプロレス大全集(1997年10月8日)
- みちのくwalker(2003年5月1日)
VIDEO ※(注記)全て廃盤
- デルフィンvsSATOの軌跡(VHS、1994年)
- みちのくプロレスはいかがでしょう(VHS、1994年)
- ルチャ・マニア御用達(VHS、1995年)
- 永遠の炎(VHS)
- 新崎人生の旅立ち編(VHS、1995年)
- 初☆夢 -藤原組vsみちのくプロレス-(VHS、1995年)
- みちのくプロレスはいかがでしょう2(VHS)
- 覆面ワールドリーグ戦(VHS、1995年)
- 新崎人生 掟破り(VHS、週刊プロレス増刊)
- ルチャ天国危機一髪!(VHS、週刊プロレス増刊)
- 竹脇(VHS、1996年)
- 世界選手権シリーズ96 -栄光の輝き-(VHS、1997年)
- サスケのオレがナニしたのヨ?'96(VHS、1997年)
- ルチャの国から'96 -傷心-(VHS、1997年)
- サスケからダイオキシン -みちのくプロレス 1997年10月10日. 両国国技館-(VHS、1997年)
- 海援隊DXスペシャル(VHS、1998年)
- みちのくプロレスはいかがでしょう(3) サスケ 新たなる旅立ち(VHS、1999年)
- サスケの新たな旅立ち インパクト篇(VHS、1999年)
- みちのくプロレス10周年記念ビデオ ザ・グレート・サスケ編(VHS、2003年)
DVD
- ふく面ワールドリーグ戦 ベストセレクションDVD(2007年)
- 第4回ふく面ワールドリーグ戦(2007年)
- 15周年DVD みちのくプロレス・ノスタルジック3枚組(2008年)
- みちのくプロレス15周年ノスタルジックツアー(2008年)
- ザ・グレート・サスケ20周年記念(2009年)
関連項目
- ふく面ワールドリーグ戦
- 宇宙大戦争 (プロレス興行)
- FIGHTING TV サムライ
- GAORA
- 荒吐ロックフェスティバル
- 仙台のスポーツ
- やっぺし!みちプロ(IBC岩手放送で2008年に放送されたテレビ番組)
外部リンク
- みちのくプロレスオフィシャルサイト
- グレートコミュニケーションJAPAN(仙台のラジオ3をキー局に、東北5県cFM10局ネット。ポッドキャスティングもしている)
- 曹洞宗金剛宝山 輪王寺
- IBC岩手放送
- ホーム→CONTENTS(>>テレビ)→番組一覧または番組表の下から(IBC番組)→やっぺし!みちプロ(番組紹介ページ)