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文禄・慶長の役

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文禄・慶長の役(ぶんろく・けいちょうのえき)は豊臣秀吉による、二度にわたる明遠征の通過地点である李氏朝鮮における戦闘の総称である。朝鮮出兵と呼ばれることが多い。朝鮮側が受けた被害に関心をもつ立場などからは朝鮮侵略と呼ばれる。これに対し日本側の立場からは朝鮮征伐と呼ばれる場合もある。ただし1910年(明治四十三年)の日韓併合以後は朝鮮人を同胞と見なすようになり朝鮮征伐の表現は避けられるようになった。豊臣政権時から江戸時代後期に至るまでは高麗陣あるいは朝鮮陣と呼ばれていた。

文禄の役1592年(文禄元年)に始まって翌1593年(文禄二年)に休戦し、講和交渉決裂によって始まった慶長の役1597年(慶長二年)に始まり、1598年(慶長三年)の秀吉の死を受けた日本軍の撤退をもって終結した。朝鮮民主主義人民共和国大韓民国では文禄の役を壬辰倭乱(イムジンウェラン)、慶長の役を丁酉再乱(チョンユヂェラン)と呼んでおり、では万暦朝鮮の役と呼ばれた。

文禄の役

1590年に日本を統一した豊臣秀吉は、東アジアの統一をも企図し、対馬の領主宗氏を通じて朝鮮に服属と明遠征の先導を命じた。元来朝鮮との貿易に経済を依存していた宗氏は対応に苦慮し、日本統一を祝賀する通信使の派遣を要求して穏便に済まそうとしたが、結局秀吉は明への遠征を決め、文禄元年(1592年)四月(和暦。漢数字表記の月は以下同じ)、「朝鮮に明への道を借りる(假途入明)」という名目で16万の大軍を朝鮮半島へ送った。釜山に上陸した日本軍に対し、侵攻を予期していなかった朝鮮軍はあっという間に敗北。釜山鎮の戦い(鄭撥・戦死)、東莱城の戦い(宋象賢・戦死)、尚州の戦い(李鎰・敗走)、弾琴台の戦い(申立・戦死)などで日本軍は勝利を重ねた。翌五月には首都漢城(現在のソウル)を占領。朝鮮国王の宣祖は北は平壌、義州へと逃亡し、明に救援を要請するが、その間にさらに北上した日本軍は平壌を占領した。

「宣祖実録」によると、このとき朝鮮の民衆は既に王や大臣を見限り、日本軍に協力する者が続出した。 また、明の朝鮮支援軍が駆けつけてみると、辺りに散らばる首の殆どが朝鮮の民であったと書かれてある。景福宮は、秀吉軍の入城前にはすでに灰燼となっており、奴婢(ぬひ、奴隷の一種)は、秀吉軍を解放軍として迎え、奴婢の身分台帳を保管していた掌隷院に火を放った、とある。

日本軍は北西部の平安道を除く朝鮮全土を制圧し、加藤清正の一隊は東北部国境を越えた。しかし開戦直後から李舜臣率いる朝鮮水軍により海上行動が阻害され、朝鮮北部へ補給は陸路に頼ることになった。占領各地では義兵の決起が生じ、このため武器・兵糧不足に悩まされた。この義兵は流民も多く、朝鮮の民衆や軍隊も襲った。 七月、明軍の部隊が最前線の平壌を急襲した。これは小西行長によって撃退するものの、明の救援が始まったことで戦況は膠着することになる。

要衝を制圧しながら、日本軍は第一次晋州城合戦(1592年9月、宇喜多秀家指揮の日本軍VS金時敏指揮の朝鮮軍)で苦戦。ちなみに、この戦闘は閑山島海戦(1592年7月、脇坂安治指揮の日本軍VS李舜臣指揮の朝鮮軍)・幸州山城攻防戦(1593年2月、宇喜多秀家指揮の日本軍VS権慄指揮の朝鮮軍)とあわせて韓国では「三大捷」と呼ばれている。

翌文禄二年(1593年)一月、明軍がさらなる大軍で平壌に侵攻し制圧。対する日本軍も漢城郊外の碧蹄館の戦いで勝利。この段階で両者の戦線が行き詰まり、和平交渉が始められた。

和平交渉

秀吉は明が降伏したという報告を受け、明の朝廷も秀吉が降伏したという報告を受けていた。これは日本・明双方の講和担当者が穏便に講和を行うためにそれぞれ偽りの報告をした為である。

このため秀吉は和平に際し、明の皇女を天皇に嫁がせる事や朝鮮南部の割譲など、とうてい明側には受け入れられない講和条件を提示し、明の降伏使節の来朝を要求した。一方、明の朝廷の側も日本が降伏したという証を要求したが、これも秀吉にとってはとうてい受け入れられるものではなかった。

結局日本の交渉担当者は「関白降表」という偽りの降伏文書を作成し、明側には秀吉の和平条件は「勘合貿易の再開」という条件のみであると伝えられた。「秀吉の降伏」を確認した明は朝議の結果「封は許すが貢は許さない」(明の冊封体制下に入る事は認めるが勘合貿易は認めない)と決め、秀吉に対し日本国王の金印を授けるため日本に使節を派遣した。

文禄五年(1596年)九月、秀吉は来朝した明使節と謁見。秀吉は降伏使節が来たと当初は喜んだが、使節の本当の目的を知り激怒。使者を追い返し朝鮮への再度出兵を決定した。

慶長の役

慶長二年(1597年)二月、和平交渉で無視された朝鮮南部の日本への割譲を実力で果たすという名目で、秀吉は14万の軍を再び朝鮮に送った。七月に日本水軍が巨済島で李舜臣の後任として朝鮮水軍を率いていた元均を破って日本軍が制海権を確保した。続いて日本軍は右翼軍と左翼軍の二隊に別れ慶尚道から全羅道に向かって進撃する。対する明・朝鮮軍は道境付近の黄石山城と南原城で守りを固めたが、日本の右翼軍は黄石山城を、左翼軍は南原城を攻撃、たちまち二城を陥落させ、全羅道・忠清道を瞬く間に占領した。しかし再度の侵攻に備えていた朝鮮・明連合軍の反撃に遭遇、さらに水軍都統に返り咲いた李舜臣により半島西岸への進出を阻止された。十二月には日本軍が蔚山に築いた倭城(日本式城郭)を包囲した。翌慶長三年(1598年)に入ると、日本軍は沿岸部に築いた倭城の堅固な守りに助けられて泗川の戦いなど明・朝鮮軍の攻勢を撃退した。しかし結局この年八月に秀吉が死去したため五大老は撤退を決定し、十月から十一月にかけて日本軍は朝鮮を退去した。

その後の和平交渉は徳川家康によって委任を受けた対馬の宗氏と朝鮮当局の間で進められる。征夷大将軍徳川家康と朝鮮側の使節との会見が実現したのは日本軍撤兵から6年後の慶長九年(1604年)、江戸幕府に対する朝鮮通信使が派遣されて正式の和平が果たされたのは慶長十二年(1607年)であった。

文禄・慶長の役の影響

休戦を挟んで6年に及んだ戦争は、日朝明三国に重大な影響を及ぼした。

日本では、この戦争に過大な兵役を課せられた西国大名が疲弊し、豊臣政権の基盤を危うくする一方、諸大名中最大の石高を持ちながら九州への出陣止まりで朝鮮への派兵を免れた徳川家康が隠然たる力を持つようになった。五大老の筆頭となった家康は秀吉死後の和平交渉でもリーダーシップを取り、関ヶ原の戦いを前にして実質的な政権運営者へとのし上がってゆく。また、朝鮮に渡った大名たちによって農民儒学者陶工が連れ去られた。磁器の製法、朝鮮式の瓦の装飾などが伝わったことが特筆される。

戦場となった朝鮮は国土に甚大な被害を受けた。戦時下での宮殿・王陵の破壊や兵糧の徴発、さらに慶長の役で行われた日本軍による義兵指導者の殺害、死体への劓り(鼻切り)などの残酷な行為が朝鮮の人々の間に深い日本への憎悪を記憶させた。平和な貿易関係を望む対馬宗氏も朝鮮王朝に強く警戒され、日本使節の上京は禁じられて貿易に訪れた日本人も釜山に設けられた倭館に留め置かれることとなる。一方、朝鮮の両班階層の間では明の援軍のおかげにより朝鮮は滅亡を免れたのだという意識(「再造之恩」)が強調され、崇明意識が生まれた(もっとも、実際には明の将兵の横暴に苦しめられることも大であった)。崇明意識(中国崇拝)と日本への憎悪は儒教を学ぶことから得られた強い中華への憧れは、間もなく明が滅亡してそれまで夷狄と蔑んできた女真の建てた朝貢せねばならなくなったコンプレックスとあいまって、朝鮮に独特の事大主義的な華夷思想を生んでゆく。

明では、朝鮮への援兵を、同時期に行われた寧夏ボバイ、播州(四川省)の楊応龍の二人の辺境地方の地元民族首長反乱の鎮圧とあわせて、「万暦の三大征」と呼んでいる。これらの軍事支出と皇帝万暦帝の奢侈は明の財政を悪化させ、17世紀前半の明の急速な弱体化の重要な原因となったと考えられている。

関連項目

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