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宝篋印塔

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石山寺(滋賀県大津市)の塔(国重要文化財)。関西形式

宝篋印塔(ほうきょういんとう)は、墓塔・供養塔などに使われる仏塔の一種である。五輪塔とともに、石造の遺品が多い。

起源

中国の呉越銭弘俶(せんこうしゅく)が延命を願って、諸国に立てた8万4千塔の形をまねて簡略化したものだとされている。これは、インドのアショーカ王釈迦の入滅後立てられた8本の塔のうち7本から仏舎利を取り出して、新たに8万4千塔に分納したという故事に習ったものだという。 日本には鎌倉中期以後に造立が盛んになった。

名称は、宝篋印陀羅尼(宝篋印心咒経/ほうきょういんしんじゅきょう)を納めたことによる。ただし、他のものを納めていても同形のものは、すべて宝篋印塔と呼ぶ。本来的には、基礎に宝篋印心咒経の文字を刻む。 五輪塔と同じく密教系の塔で、鎌倉期以降宗派を問わず造立されるようになった。

構造

宝篋印塔の各部と名称

最上部の棒状の部分は相輪と呼ばれる。相輪は、頂上に宝珠をのせ、その下に請花(うけばな)、九輪(宝輪)、伏鉢などと呼ばれる部分がある。相輪は宝篋印塔以外にも、宝塔多宝塔層塔などにも見られるもので、単なる飾りではなく、釈迦の遺骨を祀る「ストゥーパ」の原型を残した部分である。相輪の下には笠があり、この笠の四隅には隅飾(すみかざり)と呼ばれる突起がある。笠の下の方形の部分は、塔身(とうしん)、さらにその下の方形部分は基礎と呼ばれる。

この塔身部に四角の輪郭が刻まれずに基礎部の格座間が一つの型が関西形式と呼ばれる基本の型である。塔身に四角の輪郭を刻まれて基礎部に格座間(こうざま)が二つあるものは関東形式と呼ばれる。名称の通り、関西形式は関西地方に、関東形式は関東地方に分布する。

太字は図中に記載あり

宝篋印塔の基本形式は、以上の通りであるが、時代・地方により、多少の違いが見られる。例えば頂上部の宝珠については、時代が下るとともに、膨らみが失われ、室町期・江戸期を通して先端が尖っていくという特徴がある(この特徴は宝珠全体のもので、先述の五輪塔・宝塔・石灯籠擬宝珠(ぎぼし)においても同様である)。隅飾は、同じように時代が下るごとに、外側へ張り出す傾向があり、江戸期には極端に反り返る隅飾になった。基礎部下の基壇も、次第に返花座などの飾りをもたない方形石の基壇となる。また、塔身・基礎部の大きさの違いをはじめ、塔身に方角に対応した仏の種子や像のレリーフを刻む、二重輪郭をとるなど、塔によって様々な形態がある。

意義

先述の通り、宝篋印塔はもとは密教系の石塔ではあったが、鎌倉期以降は宗派を超えて造立されるようになった。滅罪や延命などの利益から、追善(死後に供養すること)・逆修(生前にあらかじめ供養をすませること)の供養塔、墓碑塔として、五輪塔とともに多く造立された。

鎌倉地方の丘陵部に多く存在するやぐらには、宝篋印塔が置かれる場合や、宝篋印塔のレリーフが彫られている例がある。ほぼ、五輪塔と同じ意義で用いられたことが考えられるが、作例は五輪塔よりも少ない。

律宗僧と石工

石造宝篋印塔のような石造美術品、特に中世期のものを見るうえで、律宗僧及びその関係の石工たちの存在に注目しなければならない。中世期は、平安期に比べて石造美術品の造立数は格段の数となり、奈良の西大寺叡尊忍性といった律宗僧の戒律復興運動の全国展開により、彼らが招いて、率いた石工たちにより、優れた石造美術品が残された。現在も律宗系寺院または律宗系寺院の廃寺の跡において、このような石造美術品が多い。

主な宝篋印塔

泣塔(鎌倉市指定文化財)。JR大船工場跡地にある中世の塔。関東形式
円福寺(奈良県生駒市)の塔(国重要文化財)。1293年銘、関西形式
温泉寺(兵庫県豊岡市)の塔(手前の石塔、国の重要文化財)。室町時代

参考文献

  • 『かまくら子ども風土記』(平成3年版) 鎌倉市教育委員会、1991年
  • 白井永二 『鎌倉事典』 東京堂出版、1999年
  • 『日本石造美術辞典』 東京堂出版、1998年
  • 山川均 『石造物が語る中世職能集団』 2006年

関連項目

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