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山岡景以

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時代 安土桃山時代から江戸時代前期
生誕 天正2年(1574年)
死没 寛永19年6月4日(1642年 6月30日)
別名 長太郎(幼名)。宗由(法号)
景行・景継・景之(別名)
墓所 京都府 京都市知恩寺
官位 従五位下、主計頭。図書頭
氏族 山岡氏
父母 父:山岡景隆
母:水野重久の娘・山岡宗栄(異説あり)
養父:山岡景友
兄弟 山岡景宗山岡景以

山岡 景以(やまおか かげもち)は、安土桃山時代武将江戸幕府旗本である。室は佐々成政の娘。

天正2年(1574年)、織田信長の家臣・山岡景隆の7男として生まれる。天正16年(1588年)に豊臣秀次の家臣となり、3000石を与えられた。文禄4年(1595年)の秀次事件では秀次に従って高野山に入った。秀次の死後、景以は罪を許されて豊臣秀吉に仕えている。

関ヶ原の戦い後は徳川家康に仕えた。

慶長8年(1603年)に叔父で大名の山岡景友(常陸古渡藩)が死去すると、その養子となって山岡氏の家督を継ぎ、甲賀組を預けられた。

慶長19年(1614年)の大坂冬の陣、慶長20年(1615年)の大坂夏の陣にも徳川方として参加した。

家康の死後は徳川秀忠、次いで徳川家光に仕え、寛永11年(1634年)の家光の上洛にも従った。寛永13年(1636年)には甲賀の水口城番を務めている。寛永19年(1642年)6月4日、近江で死去した。享年69。

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