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桶狭間の戦い

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桶狭間の戦い
桶狭間古戦場伝説地(愛知県豊明市)
桶狭間古戦場伝説地(愛知県豊明市)
戦争:
年月日:永禄3年5月19日(1560年 6月12日)
場所:尾張国桶狭間
結果:織田軍の勝利 今川義元の戦死
交戦勢力
織田軍 今川軍
指導者・指揮官
織田信長 今川義元
戦力
4,000 25,000
損害
不明 3000余(信長公記武徳編年集成)
2500(落穂集武徳大盛記)
3907(改正三河後風土記)[1]
織田信長の戦い
今川義元の墓(明治9年(1876年)5月建立)桶狭間古戦場伝説地(愛知県豊明市)内

桶狭間の戦い(おけはざまのたたかい)とは永禄3年5月19日(1560年 6月12日)に行われた合戦である。

2万5千といわれる大軍を引き連れて尾張に侵攻した駿河戦国大名今川義元に対し、尾張の大名・織田信長が10分の1程とも言われる軍勢で本陣を強襲し、今川義元を討ち取って今川軍を潰走させた歴史上最も華々しい逆転劇と言われた非常に有名な戦いである。東海地方に勢力を拡大し続けてきた今川氏はこの戦いを契機に没落し、逆に勝利した織田氏はこれ以降畿内制覇に向かって急成長していったことで戦国時代の重要な転機となった。

合戦の経過

合戦以前の情勢

たえず織田氏と今川氏は信長の父・織田信秀の時代から三河尾張両国の国境地帯の支配を巡って長らく争ってきた。西三河を支配していた戦国大名松平氏が若い当主の相次ぐ変死で弱体化し、今川氏の保護下に組み込まれていったために、当初の戦線は松平氏の旧勢力圏をめぐって三河国内にあり、天文11年(1542年)の第1回の小豆坂の戦いでは織田方が勝利するなど織田側が優勢であった。しかし、天文17年(1548年)の第2回の小豆坂の戦いでは今川方が勝利を収め、この戦いの後、織田氏の勢力は尾張・三河の国境線から後退、尾張国内の鳴海城(愛知県 名古屋市 緑区)、大高城(愛知県名古屋市緑区大高)、沓掛城(豊明市沓掛町)の一帯が今川氏の手に落ち、情勢は今川方が優勢であった。

しかし織田氏は次第に逆襲に転じ、これらのうちもっとも織田領に食い込んだ鳴海城の周囲を取り巻くように丹下砦善照寺砦中嶋砦を築き、鳴海城を圧迫した。鳴海城の南にある大高城も織田氏の築いた丸根砦鷲津砦によって鳴海城、沓掛城との連絡を遮断され、孤立していた。

合戦までの経過

この情勢のもと永禄3年(1560年)5月12日、今川義元は自ら大軍を率いて駿府を発ち、尾張を目指して東海道を西進した。5月17日(6月10日)、尾張の今川方諸城の中で最も三河に近い沓掛城に入った今川軍は、翌5月18日(6月11日)夜、松平元康(のちの徳川家康)が率いる三河衆を先行させ、大高城に兵糧を届けさせた。

翌19日(6月12日)3時頃、松平元康と朝比奈泰朝は織田方の丸根砦、鷲津砦に攻撃を開始する。一方、前日に今川軍接近の報を聞いても動かなかった信長は今川軍の攻撃開始の報を得て、飛び起きて幸若敦盛」を舞ったのち、ようやく出陣の身支度を整えると、明け方の4時頃に居城清洲城を進発[2] 。わずかな従者のみを連れて出た信長は8時頃、熱田神社に到着、軍勢を集結させて熱田神宮に戦勝祈願を行った。

10時頃、信長の軍は鳴海城を囲む砦の1つ、善照寺砦に入っておよそ2,000人といわれる軍勢を整えた。この間に今川軍先鋒の猛攻を受けた丸根、鷲津の両砦は陥落、大高城周辺の制圧を完了した今川方は、今川義元が率いる本隊が沓掛城を進発し、大高城の方面に向かって西に進んだ。一方の信長は11時から12時頃、善照寺砦より出撃、鳴海から見て東海道の東南に当たる桶狭間の方面に敵軍の存在を察知し東南への進軍を開始した(但し、信長は中嶋砦まで進軍しているとする資料もある)。

桶狭間の合戦

13時頃、突如豪雨が降り視界が悪くなった。通説ではこの雨に乗じて迂回行動を行ったとされているが、現在ではそれに否定的な見解が主流である(これについては後で詳しく論じる)。

雨がやんだ直後の14時頃、織田軍は今川義元の本隊に接触、攻撃を開始した。全軍で2万を数えた今川軍も本隊はそれほど大きな兵力をもっていなかったため2000人が一団となって突撃してきた織田軍の猛攻によって混乱し、劣勢を悟った義元は退却を命じた。しかし双方の大将が徒歩立ちになって刀槍をふるう乱戦となり、ついには今川義元の旗本部隊に織田信長の親衛隊が突入した。

信長公記では、義元は信長の馬廻の一人の服部一忠に斬りかかられるものの、逆に服部の右ひざを斬って負傷させた。しかし服部との格闘の間に迫ってきた新手の毛利新助と乱戦になり、組み伏せられた義元は終に毛利によって討ち取られた。義元の戦死により今川軍本隊は壊滅し、合戦は織田方の大勝に終わった。

改正三河後風土記では、毛利新助が、義元の首を討とうとしたとき偶然、義元の口に、左の指を入れてしまい、喰い切られたという。(信長公記には、この記述はない。)

両軍の兵力と戦果

信長公記では、織田2千、今川4万5千。大久保の三河物語では、織田3千、今川不明。改正三河後風土記では、織田5千、今川4万5千。北条五代記では、今川2万5千。甲陽軍鑑では、今川2万余。重修真書太閤記では、今川5万。となっている。改正三河後風土記では、鳴海・桶狭間に駐留していたはずの今川義元の4万5千が、首実験のときには、3千907、家忠日記および大成記では、2千500余と、さらに少ない。姓名の判明している家臣は、583人が討死したという。このことから、戦場に実際に駐留していた今川義元本隊の最低兵力は、2千500余以上と判明する。戦場に突入した織田信長軍の最大見積もり兵力は5千のため、むしろ兵力で押していた可能性があることになる。信長公記では簡潔な記述に留まるが、改正三河後風土記では激戦を描写しているものの織田軍が今川の兵力に押されている様子は伺えない。

類似した事例に、島津義弘6千が、明軍4万(号して20万との説も)との決戦における戦果が、首級3万余と絵本太閤記に記述されているため、本当に今川義元が、4万5千も引率していたのか疑問といえる。

合戦後の情勢

主将・今川義元松井宗信久野元宗井伊直盛由比正信吉田氏好一宮宗是ら多くの有力武将を失った今川軍は浮き足立ち、残った諸隊も駿河に向かって退却していった。大高城を守っていた松平元康も合戦直後に大高を捨て、岡崎城近くの大樹寺(松平家菩提寺)に入った。今川軍は総大将である義元を失った為に総退却となり岡崎城を守っていた今川氏の城代までも城を捨てて駿河に去ってしまった。元康は是を接収し岡崎城に入城した。

尾張・三河国境で今川方についた諸城は依然として織田方に抵抗したが織田軍は今川軍を破ったことで勢い付き、6月21日(7月14日)に沓掛城を攻略するなど一帯を一挙に奪還していった。しかし鳴海城は城将・岡部元信以下踏みとどまって頑強に抵抗を続け、ついに落城しなかった。元信は織田信長と交渉し、今川義元の首級(しゅきゅう、討ち取った大将の首のこと)と引き換えに開城、義元の首を携えて駿河に帰国した。

一連の戦いで西三河から尾張に至る地域から今川氏の勢力が一掃されたことにより、岡崎の元康は今川氏から自立して松平氏の旧領回復を目指し始め、この地方は織田信長と松平元康の角逐の場となった。しかし元康は義元の後を継いだ今川氏真が義元の仇討の出陣をしないことを理由(勿論これは口実であって、氏真は当主の死で混乱する今川家中の安定化に力を注ぐ事を重視し、逆に元康は氏真体制が固まる前の自立を図った)に今川氏から完全に離反し、永禄5年(1562年)になって氏真に無断で織田氏と講和。以後、公然と今川氏と敵対して三河の統一を進めていった。また、信長は松平氏との講和によって東から攻められる危険を回避できるようになり、以後美濃国斎藤氏との戦いに専念できるようになり急速に勢力を拡大させてゆくことになる。

参戦武将

織田軍
しかく織田信長 しかく織田秀敏 しかく池田恒興 しかく林秀貞 しかく森可成 しかく柴田勝家 しかく佐久間信盛 しかく飯尾定宗 しかく金森長近 しかく長谷川橋介 しかく水野忠光 しかく佐久間信辰 しかく佐久間盛重 しかく梶川一秀 しかく長谷川秀一

今川軍
しかく今川義元 しかく松平元康 しかく朝比奈泰朝 しかく瀬名氏俊 しかく岡部元信 しかく葛山信貞 しかく山口教継 しかく松井宗信 しかく井伊直盛 しかく由比正信 しかく久野元宗

合戦の実態をめぐる議論

桶狭間の戦いの経緯はこれまで説明してきた通りであるが合戦の性格や実態については不確かなことも多く、さまざまな議論を呼んでいる。

義元の尾張侵攻の理由

長らく定説とされてきたところによれば、今川義元の尾張侵攻は上洛、すなわち京都に入って室町幕府の政権を掌握するためだったと考えられた。幕末編纂の栗原信充の重修真書太閤記(嘉永5:1852〜安政5:1858)では、義元上洛の記述が見える。

しかしながら義元は今川氏を継承してから長らく三河、尾張で漸進的に勢力を広げる戦いを繰り広げており、尾張をほとんど制圧していない状況で一挙に上洛を目指すという冒険的決断をしたとするには難がある。更に歴史的に今川氏が一時尾張守護を兼ねていた時期があり、尾張そのものに単なる隣国ではなく今川氏の旧領としての意識があった可能性もある。

確かに後に足利義昭を奉じて上洛する織田信長や次いで京都に入って信長に代わって中央権力を掌握しようとした武田信玄らの例はあるが、当時の義元の置かれていた状況は大きく異なる。仮に信長や信玄が上洛の名分に利用したように将軍やそれに準じる者からの上洛命令などがあったとしても、客観的な情勢と義元の従来の領土拡大の方針からみて、この軍事作戦が命令に従って行われたものとは考えにくい。実際、義元が永禄2年(1559年)に発行した出陣準備の文書にも「上洛」の文字はない。また、上洛が目的であるならば事前に越前の朝倉氏や南近江の六角氏、伊勢の北畠氏などに協力を要請するはずだが、そのような書簡も残されておらず、この当時将軍であった足利義輝と義元との間に何らかのやり取りがあったとする史料もない。

既に合戦以前の情勢の節で述べたように当時の尾張・三河国境地帯では今川軍が尾張側に食い込んでいる優勢ではあったが、最前線の鳴海城と大高城の二城が織田方の城砦によって包囲されて危険な状態であった。したがって、実際には領土紛争の一環としてこの二城を救出しようとしたか、より大胆な意図があったとしてもせいぜい尾張の奪取程度が自然とするのが現在では定説となっている。

合戦場と奇襲の問題

桶狭間の戦いの本戦についても、根本的な「どこで、どのように行われたか」という点において議論となっている問題がある。いずれの説も太田牛一『信長公記』または小瀬甫庵『信長記』に基づいたものであるが、双方の記述には多くの相違が見られる。一般的には信長の家臣であった太田牛一が書いたことから『信長公記』の信頼性が高いとされる。ただし太田牛一がこの合戦の模様を直接見聞したという確証は無い。

合戦場

「どこで」、すなわち合戦の行われた戦場については一般に「桶狭間」という地名で知られており、特に近代以降「桶狭間の戦い」という名称が歴史学上で定着し、文部省の学校教育を通じて全国的に知られている。

「桶狭間」の地名は現在、行政的には名古屋市 緑区の有松町(旧・知多郡有松町)に大字として残っており、この行政地名は江戸時代の桶狭間村を継承したものである。名古屋市内の「桶狭間」は東海道から南に離れた緩やかな谷あいで、ここから当時の街道沿いに西に進むと合戦の前哨戦の行われた丸根砦を経て今川方の最前線である大高城に至る。名古屋市内の「桶狭間」には今川氏の家臣である瀬名氏俊が戦いの評議をしたとされる伝承地「戦評の松」(ただし現在の松は伊勢湾台風で古木が倒壊したため、新たに植え替えたものである)など、桶狭間の戦いに関係すると主張される伝承地が存在する。

一方、名古屋市の有松町桶狭間からやや北東、東海道のすぐ傍にある豊明市には「桶狭間古戦場伝説地」が存在しており、桶狭間の戦いの合戦地として著名である。ここは今川方の拠点である沓掛城と鳴海城を結ぶ合戦当時の東海道(鎌倉街道)からはやや南に離れてはいるが鳴海城の方面に通じる谷筋の一角であり、また伝説地の一帯は奇襲に適すると思われる谷あいの地形である。ここには義元の墓が残っていることがかなり古くから知られており、江戸時代の記録(『守貞漫稿』)にもあらわれる。

ほぼ同時代の史料に基づいて合戦場を見ると、『信長公記』では今川義元は「桶狭間山」に本陣を構えたと記録されている。

「桶狭間山」の位置ははっきりとはわかっていない。延享2年(1745年)の大脇村(現・豊明市)絵図において大脇村と桶狭間村の境に図示され、天明元年(1781年)の落合村(現・豊明市)絵図において落合村と桶狭間村の境で前述大脇村絵図のものよりやや南に下った山として示されており、現在の豊明市の桶狭間古戦場一帯と名古屋市の「桶狭間」の間の山を指していたと考えられる。

一方、江戸時代に描かれた桶狭間の戦いの合戦図の中には今川義元の本陣所在地として江戸時代当時の桶狭間村のあたりにある丘を図示したものが見られる。こうした絵図の中の「桶狭間山」が16世紀の太田牛一の認識と一致しているかは明らかではないが、「桶狭間山」は名古屋市内の桶狭間にある丘陵に比定する説もある。

また、『信長記』には今川義元が討たれた場所は田楽狭間であったと記されている。

田楽狭間の場所については、尾張名所図会には「田楽が窪を経て三河の堺川の前なる祐福寺へ入る」、「田楽が窪と言える野を行けば山立ち出るよしおどされて」、「あぶりたる山立ちどもが出であいて串刺しやせん田楽が窪」という一節が残っており、これに表される「田楽が窪」は現在も豊明市二村山周辺に大字として残っている。また本来、坪、窪とは窪地や深田である地内を表しており、これを素直に信じるのであれば当時の鎌倉街道周辺の窪地はこの地を置いて他に無い事になる。しかしながら窪地や深田では無いが江戸時代から昭和の頃まで名古屋市緑区の有松町桶狭間にも同様の字名が存在していたとされる地(現在の地番は有松町桶狭間北)があり、ここに比定される説もある。

以上のように、同時代の史料からは丘陵、緩やかな谷あいや窪地が錯綜したこれら一帯のどこかで合戦が行われたことが明らかになるものの正確な合戦地の範囲、今川義元の本陣所在地、義元の戦死地などは完全には確定できない。

現在、桶狭間の戦いの古戦場の史跡公園として整備された場所は2箇所存在する。ひとつは豊明市側の「国指定史跡桶狭間古戦場伝説地」で、前述のように古くから義元の墓と伝えられる墓が所在する。伝説地の一帯は陸軍参謀本部の『日本戦史』など明治以降の諸書の戦史が合戦地と採用するなど桶狭間の戦いの合戦地として全国的に広く定着し、昭和12年(1937年)に国指定史跡となっている。ここでは古くから毎年6月に鎧武者の格好で当時の合戦の模様を再現して見せる行事(現在の桶狭間古戦場祭り)が行われている。

一方、名古屋市緑区の有松町桶狭間には「桶狭間古戦場公園」という名前の公園がある。桶狭間古戦場公園は豊明市の「桶狭間古戦場伝説地」のように国指定史跡や観光名所とされている訳ではなく、昭和63年(1988年)の土地区画整理事業(名古屋市桶狭間北部土地区画整理組合・昭和56年(1981年)9月7日認可)に伴って整備された都市公園であるが、園内には今川義元戦死地の碑、馬繋ぎの塚、首洗いの泉など桶狭間の戦いにまつわる地元の伝承地が取り込まれている。

有松側と豊明側の合戦伝承地は江戸時代以来、行政上、別々の村、町、市に分断されて続けてきたため、言わば合戦地の「本家」争いが続いている。合戦地としての全国的知名度に勝る豊明市に愛知県は市のPRキャラクターとして織田信長と今川義元をイメージしたマスコットの「のぶながくん」と「よしもとくん」を設定している。

静岡大学教授の小和田哲男は「桶狭間山」の場所を豊明市の古戦場の南方にある標高64.7mの地点と特定し(この場所は周辺では最高点で、晴れの日には遠く鳴海城や善照寺砦付近まで見渡せるという。また、この場所からだと豊明市の古戦場跡は北の麓、名古屋市の古戦場跡は西の麓になる)、織田軍2000と今川軍5000がぶつかったのであるから、「桶狭間山」の麓一帯は全て戦場になったとみて間違いないとし、どちらの古戦場跡も本物であるとしている。小和田によれば、「おけはざま山」から沓掛城に逃げた今川軍が討たれたのが豊明市の古戦場で大高城に逃げた今川軍が討たれたのが名古屋市の古戦場であり、さらに義元の戦死地に関しては『続明良洪範』という資料に義元は大高城に逃げようとしたとあることから、名古屋市のほうで戦死したのではないかとしている。

奇襲

「どのように」、すなわち桶狭間の戦いの本戦の様子についてはおおよそ以下の2つの説にまとめることができる。なお、作家の橋場日月氏が『歴史群像 2008年 02月号』において両説を加味したうえで「別働隊による背後からの奇襲」説を唱えているが、発表されたばかりの新説なので内容については割愛する。

  1. 「迂回攻撃説」
    善照寺砦を出た織田信長は今川義元の本隊が窪地となっている田楽狭間(または桶狭間)で休息を取っていることを知り、今川義元の首を狙って奇襲作戦を取ることに決した。織田軍は今川軍に気づかれぬよう密かに迂回、豪雨に乗じて接近し、田楽狭間の北の丘の上から今川軍に奇襲をかけ、大混乱となった今川軍を散々に打ち破ってついに義元を戦死させた。
  2. 「正面攻撃説」
    善照寺砦を出た織田信長は善照寺砦と丸根、鷲津をつなぐ位置にある鳴海城の南の最前線中嶋砦に入った。信長はここで桶狭間方面に敵軍が行軍中であることを知り、その方向に進軍。折からの豪雨で視界がきかないうちに田楽坪にいた今川軍に接近し、正面から攻撃をしかけた。今川軍の先鋒は織田軍の予想外の正面突撃に浮き足立ち、混乱が義元の本陣に波及してついに義元は戦死した。

「迂回攻撃説」は江戸時代初期の「小瀬甫庵」作である『信長記』で取り上げられ、長らく定説とされてきた説である。これに対し「正面攻撃説」は信長に仕えた牛一の手になることから信頼性の高い『信長公記』に基づいており、また『信長公記』の記述は『信長記』と大きく食い違うことから、「迂回攻撃説」は現在では否定的とする見解が見られる。

「迂回攻撃説」では、前提として今川軍が丸根、鷲津の勝利に奢って油断していたとされる。「正面攻撃説」を取る人も信長があらかじめ情報をよく収集して(後述)、今川軍が油断しているところを義元の首のみを狙って一挙にしかけたのだというような見解を述べることがある。例えば、『信長公記』には「今川義元の塗輿も捨てくづれ逃れけり」(今川義元は塗輿を捨てて逃げた)という記述があるが総大将の目印となる塗輿が義元のそばに置いてあったのだから、つまり義元が奇襲をまったく予期していなかったのだという見方がされる。油断した大軍に決死の寡勢が突入し撃破するという構図は劇的でわかりやすく、また桶狭間の織田方の勝利の要因を説明しやすい説と言える。

これに対して今川方が油断していたと明確に伝える史料は同時代のものが少なく根拠に乏しい、常識的にいっても合戦に慣れた当時の武将たちの1人である今川義元(あるいは今川方の武将たち)がそのような致命的な油断をするとは考えにくいという反論もある。例えば大久保彦左衛門の『三河物語』では義元が桶狭間山に向かってくる織田勢を確認しており、北西の方角に守りを固めていたという事も書かれてあるように同時代人には今川方が必ずしも油断して奇襲を受けたとは思われていなかったことは指摘できる。[3]

また、織田軍の「奇襲」成功の要因として今川軍の情報を織田信長があらかじめよく収集していたという見解は非常によく見られる。その根拠として有名なのが、『信長記』等における織田信長が桶狭間の戦いの後の論功行賞で義元の首を取った毛利新助ではなく、今川軍の位置を信長に知らせた簗田政綱(天正年間に信長の有力武将として活躍した簗田広正の父とされる)が勲功第一とされたという逸話である。この見解は信長が戦争における情報の重要性を非常によく認識していた証拠として挙げられ、信長の革新性を示すエピソードとしてしばしば語られるところである。

しかしながら、『信長公記』の記述を全面的に採用する正面攻撃説の論によれば信長があらかじめ情報を収集していたという見解にも無理があることになる。これによれば、既に触れたように今川軍が油断して守るに難い場所で休息していたとする前提が成り立たない以上、義元の居場所が一定している保証はなかったはずである。なにより『信長公記』によれば信長自身、中嶋砦に入ったところで敵中に突出することを諌める家臣に向かって、敵は丸根、鷲津砦を攻撃した直後で疲れきっているはずであり、戦場に到着したばかりの新手の織田軍がしかければたやすく打ち破れるはずであるという主旨の発言をしている。

この記述を素直に信じるならば、つまり信長自身は桶狭間に発見した敵の軍を、掛城から出てきたばかりの敵本隊だとは思わず、大高城から出撃してきた敵軍の先鋒隊であろうと考えてこれを一気に打ち破ってともかく劣勢を覆そうとしていただけだったということである。

すなわち『信長公記』を全面的に論拠とする立場によれば、結局のところ織田信長が一時の形勢逆転を狙ってしかけた攻撃が偶然に敵本隊への正面突撃となったということになる。

一方、この説を考慮に加えて今川方の条件を考察すると、そもそも今川方は油断していたかどうかに関係なくこの戦いにおいて非常な悪条件が重なってしまったと考えられる。沓掛城から出てきたばかりの時点ならば、隊形も整っていなかったはずである。死節点を暴露していた状態で十分に準備を整えた新手に猛攻を受けたとするならば大混乱に陥り、壊走するのはありうる。すなわち、桶狭間の戦いは今川軍にとっては不期遭遇戦であったと思われる。さらにこれに、戦闘前後の偶然の雨天と地形が窪地あるいは丘陵であったために混乱すれば本隊が撤退しにくいなどという条件が重なる。

以上の論点により、信長の奇襲とは地形的に選択され計画的に行われた奇襲ではなく、タイミング上の奇襲であった、あるいは偶発的に奇襲になったのではないかという解釈になる。このように『信長公記』を全面的に依拠する論によれば、桶狭間における織田方の勝利は様々な条件が重なってもたらされた成功ということになる。

また現在でもよく分かっていないことだが、『信長公記』によると信長本隊から佐々隼人と千秋四郎ら300人ほどの足軽隊が本戦前に今川軍に攻撃を仕掛け敗退したという記述があり、これが何を意味するのかはまだ確定されていない(佐々隼人討死)。小和田哲男によれば、信長本隊の動きを今川軍にわかりにくくさせるための囮部隊で鳴海城をこの部隊に攻めさせて、「信長軍は鳴海城を攻める」と今川軍に思わせるための部隊であるという。ちなみに、この部隊の中に若き日の前田利家もいたとの説もあるが、定かではない。

簗田出羽守の手柄

上記の通り、簗田出羽守の情報を元に奇襲作戦を行ったという説には疑問を持たれている。また、最初から奇襲作戦を行うとすれば信長があらかじめ綿密な作戦を立てているはずであり、今川軍が休憩中・行軍中のどちらであっても奇襲は決行されたはずである。そのため、今川義元の休憩場所を通報した程度で勲功第一になるのは過賞といえる。

しかし、そもそも簗田出羽守が勲功第一になったとする記述は史料には存在していない。それどころか、敗戦国である今川家にはこの前後の感状が残るが、戦勝国である織田家には信長からの感状が存在していない。

比較的簗田出羽守の勲功第一と言う表現に近いものは小瀬甫庵の『信長記』や『武家事記』にある「(義元を討ち取った)毛利良勝に勝る殊勲とされた」とし、その報酬として沓掛を拝領したとする部分であり、勲功第一と言うのは桶狭間の戦いの後、それまで今川氏の領有であった沓掛を簗田出羽守が拝領したと言う事実から後に行われた小説的である。

ほかに、簗田出羽守が合戦前に偵察や地形の調査を行っていたとも言われている(『武功夜話』など)が、確実なものとはされていない。現代では武岡淳彦が軍事研究家の観点から詳細に構想している [4] ほか、小和田哲男が沓掛の土豪である簗田出羽守が地形などを把握していた可能性に言及している[5] が、これらにも史料的な裏づけはなく、簗田氏の本領は九坪であるとする説もある[6] 。武田鏡村は「合戦の際には双方にいい顔をするのが地域小土豪の知恵」とし、義元本隊の場所を土豪が通報した相手として簗田の名を出している[7]

また、中嶋砦の軍議で出撃に慎重な家臣が大勢を占めるなかで、簗田だけは作戦決行を強硬に主張して家臣団の消極論を封殺したとする説もあるが、これも戦記物のような本には登場するが、史料には見受けられない。

史料に残る事実は、桶狭間の戦い前までは今川氏領有の沓掛が、この戦いの後に簗田氏に拝領され、その領地になったと言うことだけである。沓掛を拝領するような手柄を立てた事は確かであるが、それがどのような手柄なのかは解っていないのが現実であると言える。

葛山信貞隊

小瀬甫庵の『信長記』やその他の幾つかの資料には、合戦時に笠寺付近に今川軍の葛山信貞隊5000の兵がいたという記述があるが、当時葛山氏に信貞という者は存在せず(武田信玄の六男が葛山信貞を名乗るのは、今川氏が没落した後の事である)、また、清洲城を出撃した信長本隊が笠寺付近を通過しているにもかかわらず何の動きもしていないなどの不審点から、その存在は疑問視されている。[8]

なお、信長公記や改正三河後風土記には、笠寺に砦または城があったとの記述があるが、そのような城はなく、笠覆寺の境内を一時的に砦として使っていたに過ぎない。[9]


脚注・出典

  1. ^ 小和田哲男 『戦史ドキュメント 桶狭間の戦い』 学研学研M文庫〉、2000年、216頁、ISBN 4059010014
  2. ^ 太田牛一 「今川義元討死の事」『信長公記』より。「この時信長敦盛の舞を遊ぱし候。人間五十年、下天の内をくらぶれば、夢幻の如くなり。一度生を得て、滅せぬ者のあるべきかとて、螺ふけ具足よこせと、仰せられ、御物具めされ、たちながら御食を参り、御甲をめし候て、御出陣なさる。」
  3. ^ 但し、大久保彦左衛門の生年は1560年であり、合戦に直接参加していたわけではないことに留意する必要がある。
  4. ^ 武岡淳彦 『戦国合戦論』 プレジデント社、1981年、ASIN B000J800JY
  5. ^ 小和田哲男 『戦史ドキュメント 桶狭間の戦い』 学研〈学研M文庫〉、2000年、ISBN 4059010014
  6. ^ 谷口克広 『信長と消えた家臣たち』 中央公論新社中公新書〉、2007年、ISBN 9784121019073
  7. ^ 武田鏡村 『大いなる謎・織田信長』 PHP研究所PHP文庫〉、2002年、ISBN 4569578071
  8. ^ 小和田哲男 『戦史ドキュメント 桶狭間の戦い』 学研〈学研M文庫〉、2000年、46頁、ISBN 4059010014
  9. ^ 小和田哲男 『戦史ドキュメント 桶狭間の戦い』 学研〈学研M文庫〉、2000年、81-82頁、ISBN 4059010014

関連項目

ウィキメディア・コモンズには、桶狭間の戦い に関連するメディアがあります。

外部リンク

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