コンテンツにスキップ
Wikipedia

エルヴィン・ロンメル

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

これはこのページの過去の版です。Fox7757 (会話 | 投稿記録) による 2008年2月18日 (月) 22:52 (個人設定で未設定ならUTC)時点の版 (→‎北アフリカ戦線 )であり、現在の版 とは大きく異なる場合があります。

Fox7757 (会話 | 投稿記録)による2008年2月18日 (月) 22:52時点の版 (→‎北アフリカ戦線 )
エルヴィン・ロンメル
1891年 11月15日 - 1944年 10月14日
[[ファイル: |200px]]
Erwin Rommel 装甲兵大将, 1941
渾名 砂漠の狐
生誕 ハイデンハイム (Heidenheim)
死没 ヘルリンゲン (Herrlingen)
軍歴 1911-1944
最終階級 元帥
指揮 第7装甲師団
ドイツアフリカ軍団
Commander in chief North Italy
Army Group E, Greece
Army Group B
戦闘 第一次世界大戦
第二次世界大戦
ナチス・ドイツのフランス侵攻
北アフリカ戦線
ノルマンディー上陸作戦
勲章 プール・ル・メリット勲章
柏葉剣ダイヤモンド付き騎士鉄十字章
テンプレートを表示

エルヴィン・ヨハネス・オイゲン・ロンメル(Erwin Johannes Eugen Rommel, 1891年 11月15日 - 1944年 10月14日)は第二次世界大戦において最も有名なドイツ軍人の一人。砂漠のアフリカ戦線において巧みな戦車部隊の運用で戦力的に優勢なイギリス軍をたびたび打ち破り、英首相チャーチルナポレオン以来の戦術家とまで評した。

プロイセン貴族ではない、中産階級出身の最初の陸軍元帥となる。

  • カタカナ表記:エアヴィン・ロンメル、あるいは、英語読みでアーウィン・ロンメルと表記されることもある。日本では「エルウィン・ロンメル」と表記される事が多い。なお、Rommel のドイツにおける読み方は、「ロンメル」よりも「ロメル」に近い。

人物

ドイツアフリカ軍団時代の彼は砂漠の狐と仇名され、英軍に「我等が敵ロンメルは巧みな戦術家ではあるが、人間である。あたかも彼が超自然的能力を持っているかのように評価するのは危険であり、戒めねばならない」とまで言わしめた。

ロンメルは騎士道溢れる軍人でもあり、火力で敵を押し込むハード・キルより相手を霍乱する事で降伏に追い込むソフト・キルを好んだ。捕虜には国際法を遵守して非常に丁重に扱った。1941年にロンメル暗殺を企図してドイツ軍施設を奇襲攻撃した英国コマンド部隊の死者を丁重に扱っている。以後も英コマンド部隊員を捕虜にせず殺害せよと命じたアドルフ・ヒトラーの命令を無視していた。ある戦いでユダヤ人部隊を捕虜にした際、ベルリンの司令部から全員を虐殺せよとの命令が下ったが、ロンメルはその命令書を焼き捨てた。彼は最後までナチス党に入信する事はなく、あくまで1人の軍人として戦い続けた[1]

こういったエピソードに加え、あまりの連勝ぶりに敵軍の中にまでロンメル将軍を崇拝するものまで現れた程である。ロンメルは神に守られていると信じ込む者もおり、英国司令部が『ロンメルは人間である』と異例の布告を出した。ドイツ国内では英雄視されロンメルの存在は士気を高める為の宣伝に大いに利用された。ある日妻にせがまれて渋々ナチスの舞踏会に参加した時は、着飾った女性たちに囲まれて身動きができなくなったという[2]

また、大隊長である第一次世界大戦の頃から前線に出て兵士に語りかけ、兵士の心情を理解する事に勤めた。(前線に出る事は非常に危険を伴うため、一般的な高級将校は前線には出ない。ロンメル自身幾度となく危険に晒された。)これは昇進後もあまり変わらなかった。北アフリカ戦線においてイタリア軍は度々ドイツ軍の足を引っ張ったが、ロンメルは苦情を言いながらもイタリアの兵士を労わった。しばしば軍団をやかましく叱責したが、兵士からは「我等が親父」と慕われていた。[3]

ロンメルは幼年時代に航空機技術者になる夢を持っていたせいか機械に対する興味が旺盛で、気軽に軽飛行機に搭乗して偵察を行ったり、宣伝大臣ゲッベルスからプレゼントされたカメラを愛用して欧州やアフリカで数千枚の戦場写真を残したりした。子息のマンフレートによると元々写真撮影が好きだったという。同僚からは写真家将軍と揶揄されていた。ロンメル自身が指揮装甲車の屋根からカメラを構えている姿を撮った写真も残っている。アフリカ軍団が危機的状況に陥った1943年2月にはエルンスト・ライツ社からライカIIIc型を送られており、ロンメルからの感謝状が同社に残っている。また、このライカIIIc型も現存している。

戦時中においても妻と手紙による交流を欠かさず、週に毎日手紙を交わす時もあった。内容は日常的なものから戦況や同盟軍に対する不満まで書き綴っていた。その手紙は現在でも保管されている。

戦中の行為からナチス指導者やほかの多くのドイツ軍人が非難されるなか、ロンメルだけはドイツのみならず、敵国であったイギリスやフランスでも肯定的に評価される事が多い。

生い立ち

ドイツ南部のバーデン=ヴュルテンベルク州ウルムから 約50km ほど離れた小さな町、ハイデンハイムでプロテスタント系の高等学校々長のエルヴィン・ロンメル(シニア)とヘレーネ・フォン・ルツの次男として生まれた。

ロンメルにはカールとゲアハルトという二人の兄弟と、妹ヘレンがいた。ロンメルは後に「私の幼少時は非常に幸福だった」と述懐している。ロンメルはエンジニア志望だったが、父親に教師か陸軍士官になれと選択を迫られ、1910年ヴュルテンベルク王国の第124歩兵連隊に入営、プロイセン王国のダンツィヒ王立士官学校に進んだ。

ロンメルはダンツィヒ陸軍士官学校時代の1911年にルーシー・モリンに出会い、1916年に結婚した。1928年に息子のマンフレートが生まれているが、彼は戦後シュトゥットガルトの市長を長年務めている。

1911年11月、ロンメルは士官学校を卒業し、1912年1月に少尉に任官した。後年、歴史家のジョン・ビーアマンとコリン・スミスは、ロンメルが1912年にヴァルブルガ・シュテマー(Walburga Stemmer)との間にゲルトルートという名の娘をもうけたという研究を発表している。

最高の勲章の一つであるブルー・マックスを授章した(プール・ル・メリット勲章)

第一次世界大戦中、ロンメルはルーマニア、イタリア、フランスの各戦線に従軍し、三度の負傷で一級および二級鉄十字章を授章した。さらに彼はイタリア北東部のカポレットの戦いで多くの捕虜を得る著しい功績を挙げ、1917年12月に最高位のプール・ル・メリット勲章を授章し、その年の最年少授章者となった。1915年に彼は中尉に昇進した。

第一次大戦後、ヴェルサイユ条約により10万人に限定された陸軍に選び残されたロンメルは、ドレスデン歩兵学校(1929年 - 1933年)、ポツダム 歩兵学校(1935年 - 1938年)の教官を務めた。

プール・ル・メリット勲章を授章した山岳戦の経験を著した『歩兵攻撃(Infanterie greift an)』は1937年に出版され、50万部を売り切った。ヒトラーも読者のひとりであった。

1938年には大佐に昇進、ウィーン郊外のマリア・テレジア女王の名を冠する陸軍士官学校校長に任命された。1939年には総統警護大隊 (Führer-Begleitbataillon、FHQ)の指揮官に任命されて、ポーランド侵攻では前線近くに停められた総統専用列車「アメリカ」の警備にあたった。ロンメルはポーランド侵攻前の8月1日に遡及して少将に昇進した。

ポーランド戦の最中、ロンメルはヒトラーに前線勤務を志願した。ヒトラーはそれを受け入れ、ポーランド戦後に新編成された第7装甲師団の師団長に任命される。

第二次世界大戦

フランス

1940年5月に開始されたフランス・ベネルックス諸国への西方電撃戦では第7装甲師団長を務め、真っ先にムーズ川(ミューズ川)を渡り英仏軍をフランス本国から切り離す一番槍をつけ、アラスシャルル・ド・ゴール大佐らが率いる英仏戦車隊の反撃を撃退するなど、連合軍に幽霊師団と仇名される神出鬼没の働きで勇名をはせ、中将に昇進した。自ら偵察機や指揮装甲車に搭乗して最前線で指揮を執り、兵士と苦楽を共にする彼の用兵術は、ドイツ軍人精神の模範とされ、兵士に実力以上の能力を発揮させた。最終的にロンメルの指揮する第7装甲師団は9万人の捕虜を獲得し、損害は戦死682名、戦車42両のみであった。[4]

ダンケルクの戦いではロンメルの軍団含むドイツは敗走する連合軍40万をフランスのダンケルクまで追い詰めた。ロンメルは英国の本格的な反撃が始まる前にこれを殲滅し、英国に上陸すべきだと主張したが、空軍元帥ヘルマン・ゲーリングの失態により連合軍の撤退をみすみす許してしまった。[5]

戦況について話し合うロンメル(左端)(1942年、北アフリカ)

北アフリカ戦線

北アフリカ戦線は当初ドイツとは全く関係のない戦線であった。古のローマ帝国を再興したいと思っていたムッソリーニの命令の元、イタリア軍は1940年9月13日にイタリア領リビアからエジプトに攻め込んだが、進撃ははかばかしくなかった。英軍はその年の年末に大規模な反攻作戦を発動し(コンパス作戦)、イタリア軍は捕虜13万人を出す惨敗を喫する。イタリア軍は占領地を手放したばかりかイタリア領リビアにまで攻め込まれてしまい(同じ時期、イタリアはアルバニアからギリシャに攻め込んだがそこでも同地の英軍に撃退され、アルバニアまで攻め込まれている)、アフリカにおける枢軸軍の命運は尽きたように思われた。ロンメルは残余のイタリア軍を支援し、リビア(アフリカ)を保持するために、北アフリカに派遣されたのである。

イギリス軍は北アフリカ戦線を戦局を左右する重要な戦場とみなし、多くの海軍と度重なる増援を派遣したが、ドイツはバルバロッサ作戦スターリングラードにほぼ全軍を投じソ連軍と死闘を繰り広げていた為、北アフリカどころではなかった。こうした点で常に優位に立つ英軍に比べ、海軍力で劣る上にマルタ島からの爆撃で海上補給路を脅かされている上に良好な港湾施設を持たないロンメル軍団は常に補給の危機に晒された。更にロンメルの保有するドイツの機甲師団は僅かに2個師団のみで、残りの大半は旧式戦車を保有した上、旧式装備で機械化されておらず、戦いが起きて劣勢になるとすぐに逃げ出すイタリア兵だった。イタリアを含めても軍団は4個師団で、これはイギリス軍の兵力を度々下回った。こうした極めて劣悪な条件にも拘らず、巧みな戦術[6] で連合軍を次々に撃破した。補給が十分に行われない点は、敵の戦車や補給所を鹵獲する事で解決した。

1941年2月6日に専用機で北アフリカに到着したロンメルは、主力であるドイツアフリカ軍団(Deutsches Afrikakorps,略称DAK)を率いて3月に反攻を開始。リビアの都市ベンガジを奪回し、トブルクを包囲した(トブルク包囲戦)。包囲を突破しようと侵攻してきた連合軍の増援を撃破し[7] ガザラの戦いでは2倍以上の兵力を用いて反攻してきたイギリス軍を壊滅させた。

ロンメルはアフリカでの戦果が評価され1941年に装甲兵大将に昇進。1942年10月にはドイツ軍史上最年少で元帥に昇進した。元帥昇格はベルリンのスタジアムの盛大なナチ党集会の中で行われた。このときロンメルは栄光の絶頂にあった。[8] 陸軍大学出身でもなくプロセイン出身でもない中流家庭出身の将軍が、元帥に昇格したのはロンメルただ1人である(しかしこの昇進が軍上層部の嫉妬を買い、後の暗殺事件の首謀者の濡れ衣を着るのである。[9] )。

1942年、ロンメルはトブルク攻略に成功しエジプトに侵攻。連合軍最後の主要拠点であるエル・アラメインに迫った。エル・アラメインを落とせば北アフリカの大規模な軍港はすべて陥落した事になり、連合軍を北アフリカから追い出すことが可能だった。だがロンメル軍団の戦力は旧式イタリア戦車や鹵獲戦車を含めた300両、それに加え燃料や弾薬の欠乏という悪条件で、対する連合軍はアメリカが本格的に参戦した事で米国からの大増援を受け300両以上の新型戦車含めた合計戦車1,100両と2倍以上の航空機を保有していた。この頃東部戦線ではスターリングラード攻防戦が勃発し、ドイツはソ連軍170万と攻防を繰り広げ北アフリカの増援どころではなかった。ロンメルは軍団の増援は不可能としても弾薬と燃料の不足を解消するために、戦争継続に必要な燃料や物資を空軍司令のアルベルト・ケッセルリンクに空輸するように頼んだがケッセルリンクは聞く耳をもたなかった上、ヒトラーに「ロンメルは神経疲労で頭がおかしくなっている」と報告した。[10] そんな中連合軍の反攻が開始され、さすがのロンメルも追い詰められ敗北し、ようやく手に入れたトブルクを放棄し大きく撤退した。この後連合軍は大攻勢に出るが(トーチ作戦)ロンメルは劣悪な軍隊で183両の戦車、600両以上の車輌、200両以上の野戦砲を破壊し連合軍に大損害を与えた。

連合軍はその後も攻勢に出るが、ロンメルの戦術によって幾度となく進軍を阻まれた。そこで連合軍は大量の航空機をもって補給路を断絶した。いかにロンメルと言えど、補給が断たれた事に加え圧倒的な物量で東西から迫る連合軍を食い止めることはできず、ドイツアフリカ軍団は1943年の1月にはチュニジア周辺に押し込まれてしまう。彼を失うことを恐れたヒトラーの命令で3月9日にチュニジアから脱出した。ドイツアフリカ軍団の戦いはその後も続いたが、主要な拠点や港を失い、5月13日に連合軍に降伏している。

ノルマンディー

1943年半ば以降、ロンメルはドイツ西方総軍の指揮下で北部フランスの防衛を担当するB軍集団司令官として、連合軍の迎撃準備に専念した。北アフリカでの経験から、連合軍の圧倒的な航空優勢のもとではドイツ軍は反撃のため大規模な部隊の展開を行うことは不可能であり、上陸時に水際で敵を撃滅することが肝要であると訴え、上陸第一日が防衛軍にとって「最も長い一日(Der längste Tag)になる」と主張した。しかし、西方軍総司令官のゲルト・フォン・ルントシュテット元帥は英米の航空戦力の脅威を正確に評価せず、連合軍を一旦上陸させた後に装甲師団で叩く戦術を主張し対立した。ルントシュテットは敵航空戦力が弱体な東部戦線の経験しか持たないが、ロンメルはエル・アラメインでの敗北により航空兵力が戦況の鍵を握る事を知っていたのである。[11] こうした将軍同士の対立の中で準備が進められた。そして運命のD-Dayの日、6月の雨季に上陸する可能性は極めて低いと考えられていた為、不運にもロンメルはベルリンで休暇を取っていた。このためノルマンディー上陸作戦時にはロンメルは軍団を指揮することが出来ず、ルントシュテットの作戦により連合軍の制空権下で味方の装甲師団の昼間行動は大きく制約され、有効な反撃が出来なかった。

ヒトラー暗殺計画

1944年 7月17日、ノルマンディーの前線近くを走行中のロンメルの乗用車が英空軍の第602戦闘機中隊 (602 Squadron) のスピットファイアによって機銃掃射され、ロンメルは頭部に重傷を負って入院した。

一方、7月20日ヒトラー暗殺計画の失敗後、ロンメルのB軍集団参謀長のハンス・シュパイデル (Hans Speidel) 中将(戦後西ドイツ軍及びNATOの重鎮となる)が反ナチ派だったことから、彼は計画への関与を疑われた。マルティン・ボルマンはロンメルの関与を確信し、ヨーゼフ・ゲッベルスはその関与を疑った。

ブラウシュタイン市ヘアリンゲンにあるロンメルの墓

1944年 10月14日、ヒトラーの使者として療養先の自宅を訪れた二人の将軍は、ロンメルに「反逆罪で裁判を受けるか名誉を守って自決するか」の選択を迫り、裁判を受けても死刑は免れず、粛清によって家族の身も危うくなることを恐れたロンメルは「私は軍人であり、最高司令官の命令に従う」と言い、暗殺事件への関与に関して一切弁明せずに服毒自殺を遂げた。数々の戦功で知られたロンメルの死は「戦傷によるもの」として発表され、祖国の英雄としてウルムで盛大な国葬が営まれた。しかし、ヒトラーは会葬していない。また、ロンメル夫人はこの葬儀でゲーリングの敬礼を無視したという。

ロンメルの暗殺計画への関与は不明である。戦後、彼の妻ルーシー・モリンは、ロンメルはヒトラー暗殺計画に反対していたと主張した。彼女やロンメルの息子によると、ロンメルはドイツ国民に「この戦争も誰かの裏切りのせいで負けた」という印象を残すことを非常に恐れていたらしい。第1次世界大戦にドイツが負けたのは「背後からの一撃」(ドイツ革命)のせいだと思っていた人が多く、それがナチスの台頭を招いたからだろう。

戦後、残した軍命令書、戦況報告書、日記等を戦史家リデル・ハートが編集して The Rommel Papers として出版された。

音楽

ロンメルは国民的英雄として人気があった。1941年には Unser Rommel(我らがロンメル) がつくられ、アフリカ軍団の歌として愛唱された。

映画

  • 『砂漠の鬼将軍』(米国映画、ヘンリー・ハサウェイ監督、1951年)捕虜となったデズモンド・ヤング 准将のロンメル伝記の映画化。ジェームズ・メイソンがロンメルを演じる。劇中でメイソンが着ている軍服は、ロンメル家から借りた実物であった。

ゴーグル

ロンメルは、リビアでの戦い(北アフリカ戦線)で英軍から防毒ゴーグル(砂塵ゴーグルと一般的には言われるが、英軍呼称『Anti-Gas Eye Shield "Mk II"』から防毒目的と思われる。)を鹵獲した。 ロンメルはこれを好んで着用し、彼のトレードマークとなった。上の写真で着用しているのが、まさにそのゴーグルである。

ちなみにこのゴーグルは紳士なロンメルが戦場から持ってきた、最初で最後の戦利品である。

参考文献

回想録

  • Heinz Werner Schmidt(著)、部下、With Rommel in the Desert, Albatross Publishing, 1951
  • Heinz Werner Schmidt(著)、部下、Mit Rommel in der Wüste, Argus-Verlag, München
  • Heinz Werner Schmidt(著)、清水政二(訳)、『ロンメル将軍(原題:With Rommel in the Desert)』、角川書店、1971年
  • Hanns-Gert von Esebeck(著)、部下の第15装甲師団長、Das deutsche Afrika-Korps, Siege und Niederlage, Limes, 1975, ISBN 3809020788
  • F.W. von Mellenthin(著)、部下、矢嶋由哉/光藤亘(訳)、『ドイツ戦車軍団全史:フォン・メレンティン回想録』、朝日ソノラマ、1981年
  • フリートリッヒ・ルーゲ(著)、加登川幸太郎(訳)、『ノルマンディーのロンメル』、1985年
  • デズモント・ヤング(著)、清水政二(訳)、英軍捕虜、『ロンメル将軍』、月刊ペン社、1969年

戦史研究者

ピクトリアル

  • Bruce Quarrie(著)、(写真集)、Panzers in the Desert, Patrick Stephens, 1978,ISBN 0850593387

脚注

  1. ^ 『ロンメル語録―諦めなかった将軍 』 ジョン ピムロット
  2. ^ 『ロンメル語録―諦めなかった将軍 』 ジョン ピムロット
  3. ^ 『ロンメル語録―諦めなかった将軍 』395項 ジョン ピムロット
  4. ^ 『ロンメル語録―諦めなかった将軍 』102項 ジョン ピムロット
  5. ^ 『ロンメル語録―諦めなかった将軍 』 ジョン ピムロット
  6. ^ 歩兵が防御している間に装甲師団が敵を迂回包囲する「一翼包囲攻撃」
  7. ^ バトルアクス作戦
  8. ^ 『ロンメル語録―諦めなかった将軍 』272項 ジョン ピムロット
  9. ^ 『ロンメル将軍―砂漠の狐』213項
  10. ^ 『ロンメル語録―諦めなかった将軍 』165項 ジョン ピムロット
  11. ^ 『ロンメル将軍―砂漠の狐』

関連項目

外部リンク

ウィキメディア・コモンズには、エルヴィン・ロンメル に関連するメディアがあります。

Template:Link FA Template:Link FA Template:Link FA Template:Link FA Template:Link FA Template:Link FA Template:Link FA

Template:Link FA

AltStyle によって変換されたページ (->オリジナル) /