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松平親氏

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松平親氏銅像 (豊田市松平町)

松平 親氏(まつだいら ちかうじ、? - 明徳4年(1393年)頃)は、室町時代初期、14世紀後半頃の三河国武将で、江戸時代に作成された系譜において松平氏徳川氏の始祖とされている人物である。

出自と人物

系譜によると、親氏は清和源氏新田氏の支族で、南北朝時代の争乱で南朝方について没落した世良田氏(得川氏)の一族で、得河氏(得河三郎義秀が開祖とする)の当主とされる世良田有親の子とされている。

親氏は関東(あるいは信濃国 浪合村)で鎌倉公方(あるいは斯波氏)の軍勢に敗れ、足利氏の追捕を避けるために父・有親とともに相模国時宗総本山清浄光寺に入って出家し、徳阿弥(とくあみ)と称したとされる。

徳阿弥は諸国を流浪して、三河国加茂郡 松平郷に流れ着き、同地の領主である賀茂氏の血筋を引く松平信重(松平太郎左衛門少尉信重)の客人となった。松平信重は徳阿弥の和歌に通じた教養と武勇を評価して婿養子としたので、徳阿弥は還俗して松平三郎親氏(次郎三郎とも)と名乗ったという。

松平郷領主となった親氏は、郷敷城を築き、嫡子(実際は叔父か弟)とされる泰親と協力して「中山七名」と呼ばれる近隣の領主たちを滅ぼし、勢力を拡大して戦国大名松平氏の基礎を築いた。

親氏は武芸に通じ、教養があり、信仰と慈悲の心が深かったという。領内に菩提寺となる高月院を初めとして多くの寺社仏閣を建立し、貧しい領民には援助を惜しまなかった。

親氏の存在による謎

しかし、上述したような親氏の出自と事歴については後世の徳川氏・松平氏の主張によるものに過ぎず、証拠となる史料は無く、伝説の域を出るものではない。松平氏創業の二代、親氏と泰親は同時代の史料にその名を見出すことができず、実在を疑う説もある。また、時宗の放浪僧ではなく、関東から流れてきた東国武士が浪人となった身で、松平太郎左衛門少尉信重の家を乗っ取りしたという説。諸国を放浪する中世の職人とよばれる身分だったとする説もある。

さらに、親氏の生没年は諸説があり、生年は「永仁6年(1298年)」、没年は「正平16年 / 康安元年(1361年)」とされる異説もある。しかし、そのようになると、父とされる有親の没年と食い違うこともあるため、真偽が異なるとされる(あるいは親氏の曽祖父や祖父とされる経広の生没年ともされる)。

末裔・墓所

また、のちに松平氏の重臣となる酒井氏の系譜によると、同氏の始祖酒井広親は、親氏が松平氏を継ぐ以前に三河国碧海郡酒井村の領主の婿となって生んだ子であるという。この説に従えば酒井氏は松平氏の同族ということになる。

親氏の墓は愛知県 豊田市松平町の高月院にある。没年に定説はないが、伝承によると地元松平町では明徳4年(1393年)頃とされており、平成5年(1993年)に親氏の没後600年を記念して、豊田市は「親氏公600年祭」を行われた。


関連項目


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