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国造

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国造(くに の みやつこ・こくぞう)は、律令制が導入される以前のヤマト王権の職種・(かばね)の一つである。訓の「みやつこ」とは「御奴(ミヤツコ)」または「御家つ子」の意味とされ、もともとは渡来系技術者集団に与えられた姓(かばね)のひとつ。

ヤマト王権の行政区分の一つである国の長と言う意味で、この国がしめす範囲は、律令国が整備される前の行政区分であるためはっきりと判明していない。元来、その地域の豪族が支配していた領域がそのまま国として扱われていたと考えられている。また国造の定員も1人とは限らず、一つの国に複数の国造がいる場合もあったようである。ヤマト王権への忠誠度が高い県主とは違い、元々、国主(くにぬし)と言われていた有力な地方の豪族がヤマト王権に服したときに、そのまま国造の姓が贈られ、かなりの自主性の下にその地方の支配を任されていた。そのため軍事権、裁判権を持つなどその職権の範囲はかなり広かった。

大化の改新以降は世襲制の名誉職、主に祭祀を司るものになり、従来の国造の職務は郡司に置き換えられた。また、国造が治めていた国は整理・統合、あるいは分割されていき、律令国に置き換えられていった。

大化の改新(7世紀後半)以降も存続した国造

主な新国造

社家として系譜を伝えた国造家

参考文献

  • 大川原竜一「大化以前の国造制の構造とその本質 -記紀の「国造」表記と『隋書』「軍尼」の考察を通して-」
青木書店歴史学研究』2007年7月号 No.827 p41〜p57

関連項目

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