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猿羽根峠

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猿羽根峠(さばねとうげ)とは、山形県 尾花沢市最上郡 舟形町との間にあるである。標高150m。

峠の歴史

峠が初めて登場したのは古く、延喜式に駅亭(水駅とされる)の「避翼(さるはね)駅」の名がある。奈良時代の頃より道があったとされ、多賀城から城輪柵払田柵秋田城へと向かう峠道として存在していたとされる。

江戸時代には、新庄藩天領であった尾花沢との境界になった。現在も藩境を示す石標が残されている。久保田藩(秋田藩)が中心となって羽州街道の整備を行い、庄内・秋田・津軽の諸大名の参勤交代道として使われるようになった(猿羽根峠から尾花沢にかけての区間は久保田藩によって開削されたとされ、かつては「佐竹道」と呼ばれていた)。また、峠の麓にある舟形宿からは出羽三山参詣路であった舟形街道が分岐しており、全国の修験者も多く行き交っていた。幕末になると、維新の志士が多く行き交った。

明治時代になると、初代山形県令になった三島通庸は、東京から山形県を通り、青森県にいたる街道の重要さを認識したため、地元から費用と人足を徴用し、これまでの荷駄による輸送がせいぜいだった難路から、馬車の通行が可能な猿羽根新道を開削し、1878年(明治10年)に開通した。これにより、山形県最上地方のみならず、東北北部全体が近代化に向けて発展することになる。猿羽根新道開通の翌年には、イギリスの女性旅行家イザベラ・バードが訪れ、峠の麓から見た最上川の風景を「日本奥地紀行」の中で絶賛し、猿羽根峠自体も立派な並木道を好印象を持って記しているが、逆に舟形では、家々がみすぼらしく、板戸が閉じており陰鬱であるとした。

その後、奥羽本線の開通と共に交通の主役を鉄道に譲るが、戦後のモータリゼーションの中で復権を遂げ、1961年(昭和36年)に、舟形市街地から直接猿羽根峠の下を貫通する国道13号猿羽トンネル(全長433m)が完成し、かつての難所は、峠越えを意識することなく安全に越えられる峠へと変貌した。

さらに、東北中央自動車道の一部である尾花沢新庄道路が完成すると、猿羽根峠の区間には舟形トンネル(全長1,368m)が作られ、車道の勾配すらなく越えられるようになった。

猿羽根峠の概要

猿羽根峠の頂上には、猿羽根山地蔵堂が建立されている。「日本三大地蔵」の一つであり1000年の歴史があるといわれる、良縁・子宝・長寿にご利益があるとされる。

猿羽根山地蔵尊の周囲は猿羽根山公園として整備されており、猿羽根スキー場土俵、展望台、舟形町民俗資料館(町内で発掘された縄文時代の8頭身の土偶が展示されている)などがある。かつては、観覧車や遊具を備えた猿羽根山遊園地であったが、20年前に閉園となった。スキー場や展望台などは遊園地施設の流用である。

隣のトンネル

(福島方面) 西栗子トンネル - 猿羽根トンネル - 主寝坂トンネル(秋田方面)

周辺

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