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地下鉄サリン事件

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地下鉄サリン事件(ちかてつサリンじけん)は、1995年 3月20日午前8時ごろ、東京都内の営団地下鉄(現:東京メトロ) 丸ノ内線日比谷線で各2編成、千代田線で1編成、計5編成の地下鉄車内で、化学兵器として使用される毒物であるサリンが散布され、乗客や駅員ら12人が死亡、5,510人が重軽傷を負った無差別殺人事件である。松本サリン事件に続き、大都市で一般市民に対して化学兵器が使用されたテロ事件として、全世界に衝撃を与えた。

営団地下鉄は当日終日運休、日比谷線は翌日まで延び、霞ケ関駅など4駅は3日〜6日運休した。

事件が正式発表されたのは死者が出たこの5編成だけだが、この他にも銀座線東西線半蔵門線でも被害者が発生し、23駅26編成で発生したと見られている。

事件から2日後の3月22日に、警視庁新興宗教団体オウム真理教に対する強制捜査を実施し、事件への関与が判明した教団の幹部クラスの信者が逮捕された。東京地裁は主犯の松本智津夫をはじめ、林郁夫を除く全員に死刑を言い渡した。

背景

オウム真理教に対する目黒公証役場長拉致事件坂本堤弁護士一家失踪事件などの疑惑追及の動きが高まり、警察の強制捜査があることを察知した教祖の麻原彰晃こと松本智津夫は、強制捜査の直前に大規模なテロ事件を起こせば警察の捜査の目を逸らすことが出来ると考え、朝の通勤時間帯で混雑する地下鉄内でのサリンの散布を信者達に命じた。

実行犯

実行犯は散布と運転手の二人組、5グループに分かれ犯行を行った。実行犯は以下の通り。

犯行

1995年3月20日は平日の月曜日で、事件はラッシュアワーのピーク時に発生した。液体のサリンはビニール袋に入れられた上で新聞紙にくるまれていた。各実行犯はおよそ1リットルのパック二つを運び、林泰男だけが三パックを携帯した。彼らは割り当ての列車に乗り込み、乗降口付近で先端を尖らせた傘を使い袋を数回突いた後に列車を出、共犯者の待つ自動車で逃走した。営団地下鉄は毎日数百万の乗客を輸送し、ラッシュアワー時は非常に混雑するため車両間を移動することは大変困難であった。

千代田線

千代田線の担当は林郁夫と新見智光であった。マスク姿の林は千代田線の列車番号 A725K の先頭車両に乗車した。新御茶ノ水駅でサリンのパックを刺し、逃走した。同線では二人が死亡し、231名が重傷を負った。林は無期懲役が宣告された。

丸ノ内線(荻窪発)

荻窪発丸ノ内線は広瀬健一と北村浩一が担当した。広瀬は列車番号 A777 の第3車両に乗車し、御茶ノ水駅でサリンを散布した。列車は運行を継続し、荻窪駅で新しい乗客が乗り込んだ。新高円寺駅で運行が停止されるまで彼らはサリンの影響を受けることとなった。同線では一人が死亡し、358名が重傷を負った。

丸ノ内線(池袋発)

池袋発丸ノ内線は横山真人と外崎清隆の担当であった。横山は列車番号 B801 の第5車両に新宿から7:39に乗り込んだ。彼は四ツ谷駅でサリンを散布した。横山はパックに一つの穴を開けた。列車は8:30に目的地に到着し、B901 として折り返し池袋に出発した。本郷三丁目駅で駅員がサリンのパックをモップで掃除し、B901として池袋へ再び戻った。列車は新宿に向け運行を継続した。列車はサリン散布の1時間40分後、9:27に国会議事堂前駅で運行停止された。横山は1999年に死刑が宣告され、外崎は無期懲役が宣告された。

日比谷線(中目黒発)

中目黒発日比谷線は豊田亨と高橋克也の担当であった。豊田は東武動物公園駅行きの列車番号 B711T 先頭車両に7:59に乗り込み、恵比寿駅でサリンパックを刺した。三駅後の神谷町駅で乗客はパニック状態に陥り、被害者が病院に搬送された。先頭車両の乗客は移動させられ、列車は霞ヶ関駅へ向けて運行継続された。列車は霞ヶ関駅で運行停止した。同線では一人が死亡し、532人が重傷を負った。豊田は死刑が宣告された。

日比谷線(北千住発)

北千住発日比谷線は林泰男と杉本繁郎が担当した。林は他の実行犯がサリン二パックを携帯したのに対し、自ら進んで三パックを携帯した。彼は北千住発の列車番号 A720S の第3車両に上野駅から7:43に乗車した。林は秋葉原駅で実行犯のうち一番多くの穴を開けサリンを散布した。乗客はすぐにサリンの影響を受け、次の小伝馬町駅で乗客がサリンのパックをプラットホームに蹴り出した。その結果駅で列車を待っていた4人が死亡した。サリンの液体が車両の床に残ったまま列車は運行を継続し、8:10に乗客が緊急停止ボタンを押した。列車は築地駅で停車し、ドアが開くと同時に数人の乗客がプラットホームに崩れ落ちた。列車は直ちに使用停止となった。サリン散布後列車は五つの駅に停車し、8人が死亡し275人が重傷を負った。林は死刑を宣告され、杉本は無期懲役が宣告された。

犯行後

被害者

事件の目撃者は地下鉄の入り口が戦場のようであったと語った。多くの被害者は路上に寝かされ、呼吸困難状態に陥っていた。サリンの影響を受けた被害者のうち、軽度のものはその徴候にもかかわらず医療機関を受診せず仕事に行った。多くのものはそれによって症状を悪化させた。犠牲者のうち何名かは列車の乗客を救助することでサリンの被害を受けた。

被害者は現在も心的外傷後ストレス障害(PTSD)に苦しみ、地下鉄に乗車することに不安を感じると語る。また、慢性的疲れ目や視力障害を負った者も多い。

救急救命活動

警察や消防および救急隊は被害者の取り扱いで非難された。メディアの一部には被害者の搬送を依頼されながらそれを躊躇したものもいた。地下鉄営団は事件と被害者の発生報告を受けながらも列車の一部を停止させることができなかった。また、救急病院を含む医療施設も非難された。ある病院は被害者の収容を拒否し、多くが遠方の施設に転送を依頼した。

一方で、大災害や戦争の際にも機能できる病院として設計されていた聖路加国際病院は、被害者の受け入れを無制限に実施し、被害者治療の拠点となった。このときの顛末は人気番組『プロジェクトX』でも取り上げられた。

当時サリン中毒は医師にとって未知の症状であったが、信州大学の柳澤信夫教授が偶然テレビで被害者の症状を知り、松本サリン事件の被害者の症状に酷似していることに気づき、その対処法と治療法を東京の病院にファックスで伝えたため、適切な治療を行うことができた。

余波

地下鉄サリン事件は日本史上最悪のテロ事件であった。世界史上においても国内テロとしては有数の凶悪な事件とされ、犯行は社会の大きな混乱と広範囲の恐怖を引き起こすこととなった。

事件によりオウム真理教は宗教団体としての地位を失った。警察の捜査と幹部信者の大量逮捕によりオウムは組織として大きな打撃を受けたが、現在はアーレフと改称し細々と活動を続けている。 日本の公安審査委員会破壊活動防止法に基づく解散措置の適用を見送ったが、アメリカ国務省は現在もアーレフをテロリストグループに指定している。

多くの地方自治体が信者の居住を拒否し、商店主達は信者への品物の販売を拒否した。また、信者への住居の賃貸も拒絶され、幾つかの自治体では信者の退去に公金を費やすこととなった。

一方で、事件の被害者は後遺症に悩まされる日々が続いている。視力の低下などの軽度のものから、PTSDなどの精神的なもの、重度では寝たきりのものまで、被害のレベルは様々であるが、いずれにせよ被害者への公的支援はほとんど無い。犯罪被害の賠償は原則として加害者が行うべきではあるが、アーレフに賠償能力はない。そのため犯罪被害への公的補償の必要性が論じられている。

関連項目

外部リンク

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