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森氏

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森氏清和源氏の一流、河内源氏の流れを引く。八幡太郎源義家の七男で相模国愛甲郡毛利庄の領主となる。

遠祖 陸奥七郎源義隆の時代

保元の乱以来、源氏平氏の間で朝廷における待遇の差における不満による軋轢が強まったことにより源氏の棟梁・源義朝藤原信頼らと挙兵に及び平治の乱が勃発すると、義朝の大叔父にあたる陸奥七郎源義隆は、平治の乱で源氏方につき平氏軍と戦った。しかし、源氏軍が平清盛の武略の前に敗れると、再起を期して落ち延びたものの、義隆は平家に味方した比叡山 延暦寺の僧兵によって近江国 龍華越のあたりで討ち死にしてしまう。(詳細は源義隆の項に詳しい。)その後、平家の残党の探索がはじまると、義隆の生まれたばかりの子である初名 毛利三郎、後の若槻頼隆は囚われ関東の豪族 千葉常胤の下に配流されてしまう。かねて源氏に同情の念をもっていた千葉氏は頼隆を庇護したという。(頼隆の兄弟は明らかではないが、三男であったと予測され、二人の兄、弟などとともに没落する。頼隆の兄は、長兄が毛利広隆となり、次兄は武蔵の武士団、私市党に庇護され久下氏の養子に入り久下直光となった。弟は高松定隆で南北朝時代に南朝方として北畠顕家の配下として活躍した高松氏の祖となる。)

若槻頼隆は義朝の嫡男頼朝が伊豆に反平家の兵を上げて大庭景親らに敗れて房総に逃れると、頼朝支援を表明した千葉常胤とともに頼朝の前に伺候してその家人となる。若槻頼隆は頼朝の前に出ると、頼朝は頼隆が源氏の孤児であることに温情を示し、大軍を引き連れて随身した千葉常胤よりも上座に据えるなどの厚遇を施したという。壇ノ浦の戦いで平家を滅ぼし、鎌倉幕府が成立すると頼隆は源氏一門として従五位下・伊豆守に叙せられた。その後も頼朝の信任厚く、養和元年(1181)六月には、頼朝が相模国三浦に納涼のために訪れた際には護衛として同行させたという。また、建久元年(1190)十月の上洛に際しては後陣の随兵として付き従った。頼朝の死後は、亡君の冥福を祈り出家して蔵人入道西阿と号したという。謀叛の疑いで源氏の一門が次々と討ち死にしていく中、同じ源氏ながら鎌倉幕府御家人して頼隆は命を長らえ、北条執権体制が確立した後も草創期からの鎌倉幕府を知る人物として幕府から頼りにされていた。特に五代執権北条時頼などは国政については万事頼隆に相談したとされ、慕ったという。しかし、執権として幕府の権力を握る北条氏に対してかねて対抗心を燃やしていた有力御家人の三浦泰村が反北条の兵を挙げると、頼隆は三浦家の縁戚として時頼とは敵味方にわかれて戦うこととなった。頼隆息子四人とともには討ち死にを遂げることとなる。しかし、頼隆の嫡男 若槻頼胤は千葉氏の下にあり、千葉氏の属下として長らえる。(この後、若槻氏の嫡流は千葉氏の下を離れ信濃国の豪族となり、庶流の押田氏は千葉氏の重臣となる)

頼隆次男の森頼定は鎌倉にはいなかったため、戦禍に巻き込まれないで済んだ。頼隆の次男の森頼定は長じて伊豆守に叙任し、安嘉門院 判官代をも務め、位階も正五位下に進んで森氏の勢力基盤を創り上げた。その子孫は美濃に下り、美濃源氏の名門 土岐氏の被官として森氏の命脈を保つ。分家筋には三河国 田原城に拠点を置く戸田氏などがいる。

保元の乱以来、源氏平氏の間で朝廷における待遇の差における不満による軋轢が強まったことにより源氏の棟梁・源義朝藤原信頼らと挙兵に及び平治の乱が勃発すると、義朝の大叔父にあたる陸奥七郎源義隆は、平治の乱で源氏方につき平氏軍と戦った。しかし、源氏軍が平清盛の武略の前に敗れると、再起を期して落ち延びたものの、義隆は平家に味方した比叡山 延暦寺の僧兵によって近江国 龍華越のあたりで討ち死にしてしまう。(詳細は源義隆の項に詳しい。)

その後、平家の残党の探索がはじまると、義隆の生まれたばかりの子である初名 毛利三郎、後の若槻頼隆は囚われ関東の豪族 千葉常胤の下に配流されてしまう。かねて源氏に同情の念をもっていた千葉氏は頼隆を庇護したという。(頼隆の兄弟は明らかではないが、三男であったと予測され、二人の兄、弟などとともに没落する。頼隆の兄は、長兄が毛利広隆となり、次兄は武蔵の武士団、私市党に庇護され久下氏の養子に入り久下直光となった。弟は高松定隆で南北朝時代に南朝方として北畠顕家の配下として活躍した高松氏の祖となる。)

若槻頼隆は義朝の嫡男頼朝が伊豆に反平家の兵を上げて大庭景親らに敗れて房総に逃れると、頼朝支援を表明した千葉常胤とともに頼朝の前に伺候してその家人となる。若槻頼隆は頼朝の前に出ると、頼朝は頼隆が源氏の孤児であることに温情を示し、大軍を引き連れて随身した千葉常胤よりも上座に据えるなどの厚遇を施したという。

壇ノ浦の戦いで平家を滅ぼし、鎌倉幕府が成立すると頼隆は源氏一門として従五位下・伊豆守に叙せられた。その後も頼朝の信任厚く、養和元年(1181)六月には、頼朝が相模国三浦に納涼のために訪れた際には護衛として同行させたという。また、建久元年(1190)十月の上洛に際しては後陣の随兵として付き従った。頼朝の死後は、亡君の冥福を祈り出家して蔵人入道西阿と号したという。

謀叛の疑いで源氏の一門が次々と討ち死にしていく中、同じ源氏ながら鎌倉幕府御家人して頼隆は命を長らえ、北条執権体制が確立した後も草創期からの鎌倉幕府を知る人物として幕府から頼りにされていた。特に五代執権北条時頼などは国政については万事頼隆に相談したとされ、慕ったという。しかし、執権として幕府の権力を握る北条氏に対してかねて対抗心を燃やしていた有力御家人の三浦泰村が反北条の兵を挙げると、頼隆は三浦家の縁戚として時頼とは敵味方にわかれて戦うこととなった。頼隆息子四人とともには討ち死にを遂げることとなる。しかし、頼隆の嫡男 若槻頼胤は千葉氏の下にあり、千葉氏の属下として長らえる。(この後、若槻氏の嫡流は千葉氏の下を離れ信濃国の豪族となり、庶流の押田氏は千葉氏の重臣となる)

頼隆次男の森頼定は鎌倉にはいなかったため、戦禍に巻き込まれないで済んだ。頼隆の次男の森頼定は長じて伊豆守に叙任し、安嘉門院 判官代をも務め、位階も正五位下に進んで森氏の勢力基盤を創り上げた。その子孫は美濃に下り、美濃源氏の名門 土岐氏の被官として家名を存続する。分家筋には三河国 田原城に拠点を置く戸田氏などがいる。

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