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福澤諭吉

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福澤諭吉(1862年撮影)

福澤 諭吉(ふくざわ ゆきち1835年 1月10日(天保5年12月12日) - 1901年(明治34年)2月3日)は、明治期の思想家東京学士会院初代院長。慶應義塾創設者として、明治の六大教育家に数えられる。また、専修大学(当時の専修学校)の創設にも大きく協力し、専修学校が開校した場所は、京橋区南鍋町の福沢諭吉の簿記講習所である。また専修学校は、木挽町の明治会堂の一部を校舎にもしたが、明治会堂も福沢の関係した建物であり、専修大学(当時の専修学校)の創立者に福沢が大きな協力を惜しまなかったことは実録である。

1984年2004年日本銀行券D号1万円札、2004年〜のE号1万円札の肖像にも使用されているので時代を超えた人気者でもある。現代では「福沢諭吉」と記載される事が多い。なお「中村諭吉」と名乗っていた時期がある。

慶應義塾大学をはじめとする学校法人慶應義塾の運営する学校では、福澤諭吉のことを敬意をこめて「福澤先生」と呼び、他の教授陣は君付けで呼ばれる。

経歴

1835年 1月10日(天保5年[[12月12日 (旧暦)|12月12日


剣の達人

福澤と海舟

福澤諭吉は勝海舟の批判者であり続けた。戊辰戦争の折に清水港に停泊中の脱走艦隊の1隻である咸臨丸の船員が新政府軍と交戦し徳川方の戦死者が放置された件(清水次郎長が埋葬し男を上げた意味でも有名)で、明治になってから戦死者の慰霊の石碑が清水の清見寺内に立てられるが、福澤は家族旅行で清水に遊びこの石碑の碑文を書いた男が榎本武揚と銘記され、その内容が「食人之食者死人之事(人の食(禄)を食む者は人の事に死す。即ち徳川に仕える者は徳川家のために死すという意味)」を見ると激怒したという註1

  • 註1 次郎長もこの石碑が建てられた際に来ているが、意味がわからない子分のために漢文の内容を分かりやすく教えている。自己犠牲というアウトローが尊ぶ精神構造と似ていたせいか福沢と教養面で隔絶した文盲の子分たちは大いに納得していたという。

瘠我慢の説』という公開書簡によって、海舟と榎本武揚(共に旧幕臣でありながら明治政府に仕えた)を理路整然と、古今の引用を引きながら、相手の立場を理解していると公平な立場を強調しながら、容赦なく批判している。勝が維新後に栄誉を受けたことを転身、裏切りとするこの手の意見は今も絶えないが、勝、榎本両者は徳川家には充分尽くしたのであり、また徳川家という狭い枠にとどまらず、日本のために尽くしたのである。 現に明治維新という急激な改革に不平士族たちが反乱を起こすが、最大の敵性グループであった旧幕臣たちはついにそむくことはなかった。これは勝や大久保一翁山岡鉄舟らの尽力によるものである。このことはもっと評価されてもよい。

親類縁者

長男の福澤一太郎は慶應義塾塾長、次男の福澤捨次郎は時事新報社長、四男の福澤大四郎は実業家。大四郎の長男・福澤進太郎フランス文学者・慶應義塾大学教授で、進太郎の長男・福澤幸雄はレーサー。中上川彦次郎(姉・婉の長男)は甥、女婿に福澤桃介(次女・房の夫)がいる。母の再従兄弟儒学者高谷龍洲がいる。

西洋医学

土屋雅春の『医者のみた福澤諭吉』(中央公論社、中公新書)や桜井邦朋の『福沢諭吉の「科學のススメ」』(祥伝社)によれば、福澤と西洋医学との関係は深く、以下のような業績が残されている。

『蘭学事始』の出版

杉田玄白が記した『蘭東事始』の写本を、福澤の友人神田孝平が偶然に発見した。そこで、杉田玄白の4世の孫である杉田廉卿の許可を得て、福澤の序文を附して、1869年(明治2年)に『蘭学事始』として出版した。さらに、1890年(明治23年)には、再版を「蘭学事始再版序」を附して日本医学会総会の機会に出版している。

北里柴三郎への支援

1892年(明治25年)にドイツ留学から帰国した北里柴三郎のために、東京柴山内に大日本私立衛生会 伝染病研究所(伝研)を設立して、北里が所長に就任した。1894年(明治27年)には、伝研は芝愛宕町に移転した。移転の際に住民から反対運動が起こったので、福澤は次男福澤捨次郎の新居を伝研の隣りに作って、伝研が危険でないことを示した。1899年(明治32年)に伝研が国に移管されると、北里は伝研の所長を辞任し、福澤と長与専斎森村市左衛門とが創設した土筆ヶ岡養生園に移った。

慶應義塾医学所の創設

1870年(明治3年)、慶應義塾の塾生前田政四郎のために、福澤が英国式の医学所の開設を決定した。そして、1873年(明治6年)、慶應義塾内に医学所を開設した。所長は慶應義塾出身の医師松山棟庵が就任した。また、杉田玄端を呼んで尊王舎を医学訓練の場所とした。残念ながら、1880年(明治13年)6月、医学所は閉鎖されることになった。

しかし、福澤の死後15年たった1916年(大正5年)12月27日、慶應義塾に医学部の創設が許可され、1917年(大正6年)3月、医学部予科1年生の募集を開始し、医学部長として北里柴三郎が就任することになった。

参考文献

主な著書

関連人物

関連記事

ウィキクォートに福澤諭吉 に関する引用句集があります。

外部リンク

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