コンテンツにスキップ
Wikipedia

移民

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

これはこのページの過去の版です。125.2.62.240 (会話) による 2009年10月15日 (木) 07:20 (個人設定で未設定ならUTC)時点の版 (→‎日本における移民の歴史 )であり、現在の版 とは大きく異なる場合があります。

125.2.62.240 (会話)による2009年10月15日 (木) 07:20時点の版 (→‎日本における移民の歴史 )

移民(いみん)とは異なる国家に移り住んだ人々を指す。

数十万年前からおこなわれてきた人の移動に対して、移住とはある国家の国民が別の国家に移り住むことを指す。市民権国籍を管理するようになったのは国民国家の形成以降であるから、移民とは一般に近代の概念である。移住は長期にわたる居住を意味しており、観光客や旅行者は通常含まない。ただし、通常一年以内の居住を指す季節労働者は移住として扱う場合が多い。

出ていった移民を移出民(emigrant)、入ってきた移民を移入民(immigrant)と呼ぶ。一般に移民問題とは移入民に関する問題を指す。

概要

国連の推定によれば2005年には1億9000万の人たちが移民したが、これは全世界の人口の3%に満たない。残りの97%は生まれた国もしくはその後継国に住んでいる。

移民という考えは19世紀に進展した国民国家の形成に関連している。国籍法の整備と国境の画定により国民を登録して管理するようになり、国民と移民が法律上、明確に分けられることになった。受け入れ国の法的手続きによらず移入した人々を不法移民と呼ぶ。

移民、特に貧困層の移民は、移民元では余剰人口の排出、移民先では安価な低賃金未熟練労働力の供給源となり、両方にプラスマイナスともにさまざまな影響を与える。 文化の伝播にも、アメリカのピザをはじめある程度寄与する。

移民の歴史

移民の世紀

19世紀のヨーロッパでは、人口の増大や交通機関の発達などにより大規模な人口移動がおこった。各国では人口の都市への集中がみられるいっぽう海外移民も増加した。第一次世界大戦までの100年間に新大陸に渡ったヨーロッパ人は6000万人におよび、19世紀はまさに「移民の世紀」であった。

最大の移民受け入れ国はアメリカであり、その数は1821年から1920年までの100年で約3300万人とされる。その前半には北・西ヨーロッパから、その後半は南・東ヨーロッパからの移民が多くみられ、これは各国の工業化の進展の時期のずれを示している。人口増加や貧困などの経済的な要因だけでなく、迫害を受けたユダヤ人のように政治的な要因からの移民もおこなわれた。18世紀までのヨーロッパからの移民がおもに年季契約のかたちをとった労働移民であったのに対し、19世紀には自由移民が主流となった。また19世紀半ばに黒人奴隷が解放されると中国やインドから労働者を雇い入れ、不足する労働力をおぎなった。

ヨーロッパ諸国のアジア・アフリカ植民地では、植民地経営のために政策的にヨーロッパからの植民がなされた。また、世界的な奴隷制度廃止にともない鉱山や農園(プランテーション)開発や鉄道建設のため、アジアからの労働移民が東南アジアアフリカ大陸にわたった。

東南アジアにおける植民地経営をささえていたのはマレー半島ゴムインドネシアの農業生産などであり、そこで必要とされた労働力は中国南部やインド南部から調達された。かれらの多くは契約労働者であったが、現地に定住する者も少なくなかった。これにともない商業活動に進出する者も増え、これらの中国系移民(華僑)とインド系移民(印僑)は、その後、東南アジア各地で大きな影響力をもつこととなった。

アフリカへの移民としてはインドからが多く、イギリス帝国のもとではイギリス植民地相互の植民もおこなわれた。

なお、アメリカ大陸・オーストラリア南アフリカのアジア系移民は白人労働者と競合したため、黄禍として排斥されたり移民を制限されることもあった。1870年代にはカリフォルニア州で中国人排斥の動きが高まり、1882年には中国人移民禁止法アメリカ合衆国議会で成立した。また、オーストラリアではアジア系移民を認めない白豪主義が採用され、南アフリカではこののち厳しい人種隔離政策・アパルトヘイトが長い間つづいた。

近年はEU統合と加盟国内の旅行が自由となった影響で、東ヨーロッパから西ヨーロッパへの移民が増えている。

移民の現況

ヨーロッパにおける移民

フランスは旧宗主国として北アフリカ諸国から移民を受け入れているが、国民からの反発もある。2002年の大統領選挙では移民排斥を訴える極右政党・国民戦線の党首ジャン=マリー・ル・ペンリオネル・ジョスパン首相を超える第2位の得票を得て躍進をみせた。決選投票ではジャック・シラク大統領に大差で敗れたが、移民問題が重要な国内問題であることが改めて浮き彫りにされた。

ドイツにはトルコ人が、イギリスには旧植民地インド人、パキスタン人が移民または労働者として流入している。

エマニュエル・トッドは『移民の運命』において西欧四大国(アメリカ、イギリス、フランス、ドイツ)を分析し、移民の統合状況に大きな違いがあることを示した[1]

移民によるコミュニティの出現

異郷の地において同郷の者たちが一つの地区に住むことによって、一つのコミュニティが形成される場合がある。日本人によるリトルトーキョー中国人による中華街である。

これらは数ブロック程度の「一区画」であることが多いが、規模が大きくなって村や市がまるごと移民によるコミュニティになっている場合もしばしばある。例えば、ボリビアにおけるサンフアン・デ・ヤパカニ市は集団移民した日本人が作り上げた市である。

日本における移民の歴史

国立移民収容所

開国後の日本は、第二次世界大戦後にいたるまで労働力が過剰だったために移民を送出する側にあった。労働力としての人の移動は、室町時代にはすでに存在していた。しかし中世においては、男女を奴隷として輸出する場合もあった。こうした事態を防止する意味もあり鎖国政策がとられて以後、幕末までは大規模な移民は行われなかったようである。

ふたたび労働力として日本人が他国に渡ることが多くなったのは、明治維新後のことである。明治元年(1868年)、駐日ハワイ総領事ヴァン・リードの要請を受けて、いわゆる元年移民153名がハワイ王国に送られたがその待遇は劣悪極まりないものであったため、国際問題に発展した。

海外興行株式会社のブラジル移民を促すポスター。ブラジルは世界最大の日系人人口を擁する国家である

その後、アメリカ合衆国本土やブラジルペルーなどの南米諸国等への移民が徐々に増加した。その他の受入先としてはアメリカ統治下にあったフィリピンダバオ市、満州国、日本の委任統治下にあったパラオなどの南洋群島などがある(ただし日本統治下にあった地域への移住は国内移住と同等であると考え、移民とは呼ばないことがある)。

農業の担い手だけでなく、フィリピンのバギオの例のように道路建設などの土木作業に従事する者も少なくなかった。

戦前、戦後を問わず農業を目的とした移民がたどり着く先は開墾すべき原野であることが多く、労苦があった。なかには開発の可能性がほとんどない荒地に住むことを余儀なくされたドミニカ共和国への移民のようなケースもあった。ドミニカ共和国移民の場合には当時の日本政府の喧伝内容と実際の現地の状況・待遇にかなりの相違があり、事実上の棄民 [2] ではなかったのかと後年日本の国会などで議論されている。

横浜、神戸には移民希望者が集まり、彼らを相手に出国手続や滞在中の世話をする移民宿が誕生した。またその出身地に因んだ「薩摩町」・「加賀町」などの町名が残されている。

日本人の海外移民に関しては日系人の項目も参照されたい。

2007年の時点で、日本には約100万人の来日外国人労働者が在留している。その家族や特別永住者等を含めると200万人の在留外国人がおり、日本に定住・永住する者も増えている[3]

近年少子高齢化が深刻化し、若く、安い労働力を確保する為、財界と政界の双方から移民の受け入れを求める声が上がっている。しかし欧州などの移民政策への評価が分かれており政府は慎重な姿勢は崩していない。

昭和初年の経済恐慌の農村への影響は大きく、昭和9年の冷害は特に大きな打撃を与え、その一方で満州国の成立によって大量の移住が国策として必要であるとされた。拓務省が設置され、月刊拓務時報が刊行され、拓務省内には海外移住相談所が開設された。昭和7年、神戸移民収容所は神戸移民教養所と改称され、8年、長崎移民教養所が開設された。 渡航費補助の範囲が拡大され、それまでのブラジル移民のほかに、昭和4年からはアルゼンチンへの、10年ペルーへの、11年からパラグアイへの移民も対象となった。 昭和7年からは渡航費のほかに、あらたに1人につき満12歳以上は50円、満7歳以上は25円、満3歳以上は12.5円の支度金が補助された。 昭和8年には拓殖訓練所が盛岡、三重および宮崎の3高等農林学校内に開設され、そのうち第一および第二訓練所は満蒙方面、第三訓練所は南米方面への移住者にたいし、それぞれ1箇年間の訓練が施された。 拓務省経営の満州特別農業移民として昭和7年から10年の間に1785戸が北満に入植した。

移民船

参考文献

  1. ^ Todd, Emmanuel (1999), 移民の運命, 東京: 藤原書店, ISBN 4-89434-154-9  
  2. ^ ドミニカ移住の国家犯罪―移民という名の偽装「海外派兵」小林 忠太郎 ISBN-13 978-4915970245
  3. ^ 『サラダボウル化した日本-外国人"依存"社会の現場を歩く』 若林亜紀著 光文社

関連項目

ウィクショナリーに関連の辞書項目があります。

外部リンク

AltStyle によって変換されたページ (->オリジナル) /