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西戎

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曖昧さ回避 この項目では、古代の中国の遊牧民族について説明しています。日本の神、或いは外国人・未開の民に対する蔑称については「えびす」をご覧ください。

(じゅう)あるいは西戎(せいじゅう)は古代中国の西方にいた遊牧民族を蔑んで呼ぶ言葉。

中国は西方にいた民族を中華思想により蔑み、一律に戎と呼んでいた。但し、西方と言っても代には現在の陝西省から青海省の付近にいたわけであり、現在の中国の領土の西方ではない事に注意されたい。周の十二代王幽王は暴政を布いたので諸侯の恨みを買い、諸侯の一人公の誘いを受けた犬戎(けんじゅう)は紀元前770年に周の首都鎬京を陥落させて西周時代に終わりを告げさせた。これ以降は春秋時代に入る。

周が追われた地にが封ぜられる事になるが、秦は元々戎の一派であるという説もある。秦の穆公は度々戎を討って覇者となった。その後も何度か秦と衝突し、最後には秦に吸収されたと見られる。一部は分散して匈奴に入った可能性も考えられる。民族や種族としてはいろいろ諸説はあるが、チベット系ともテュルク系ともいわれるが、特定はできない。これは今世紀の歴史・民俗学者らの度重なる研究の成果の如何によってその成果を期待するところである。

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