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== 事跡 ==
== 事跡 ==
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(追記) その後 (追記ここまで)は司馬懿に(追記) 従 (追記ここまで)い、(追記) [[青龍]]3年( (追記ここまで)[[235年]](追記) ) (追記ここまで)(追記) は (追記ここまで)魏に(追記) 侵 (追記ここまで)(追記) し (追記ここまで)た[[蜀漢]]の[[馬岱]]を迎え撃ち、(追記) 1000人 (追記ここまで)(追記) り (追記ここまで)の犠牲者を出させ撤退に追い込んでいる。また[[(追記) 景初]]2年([[238 (追記ここまで)年]](追記) ) (追記ここまで)には、(追記) [[胡遵]]とともに (追記ここまで)司馬懿(追記) による (追記ここまで)[[公孫淵]]征討に従軍している(追記) ([[遼隧の戦い]])<ref>『晋書』巻1宣帝紀</ref> (追記ここまで)


[[孫盛]]『晋陽秋』および『[[晋書]]』によれば、後に司馬懿によって毒殺される。かつて、表面に「馬の後を継ぐのは牛である」という予言が刻まれた「玄石図」という[[石碑]]があった。そのため司馬懿は牛氏を憎悪し、[[鴆毒]]が入った酒を牛金に飲ませて殺害したという。また、司馬懿の曾孫[[司馬覲]]の妃である夏侯光姫(字は銅環<ref>『晋書』巻31元夏侯太妃伝</ref>)は、小役人の牛氏{{efn|『[[太平御覧]]』に引く孫盛『晋陽秋』によれば、名は'''牛欽'''という<ref name=taiping>{{Cite wikisource|wslink=太平御覽/0098#東晋元皇帝|title=『太平御覧』巻98皇王部二十三|wslanguage=zh|quote=孫盛《晋陽秋》曰:{{interp|...}}又初元石圖有牛繼馬後,故宣帝深忌牛氏,遂爲二榼,共一口以貯酒。帝先飲佳者,以毒者酖其將牛金,而恭王妃夏氏通小吏牛欽,而生元帝,亦有符云。<!-- ウィキソースの「鴆」「牛飲」を影印本(https://ctext.org/library.pl?if=gb&file=5810&page=28)を参照に「酖」「牛欽」へ修正-->}}</ref>。}}と密通して、[[東晋]]の初代皇帝となる[[元帝 (東晋)|司馬睿]]を生んだという<ref name=taiping></ref><ref>{{Cite wikisource|wslink=晉書/卷006#元帝|title=『晋書』巻6元帝紀|wslanguage=zh|quote=初,《玄石圖》有「牛繼馬後」,故宣帝深忌牛氏,遂爲二榼,共一口,以貯酒焉,帝先飲佳者,而以毒酒鴆其將牛金。而恭王妃夏侯氏竟通小吏牛氏而生元帝,亦有符云。}}</ref>。また『[[宋書]]』によれば、牛金殺害後に[[司馬師]]が「牛金は名将であり、よく働くのに、何故あのように害したのですか」と問うと、司馬懿は「お前は石の予兆を忘れたのか、『馬の後に牛あり』と」と返しており、また小吏は[[琅邪郡|琅邪国]]の人となっている<ref>{{Cite wikisource|wslink=宋書/卷27|title=『宋書』巻27符瑞志上|wslanguage=zh|quote=先是,宣帝有寵將牛金,屢有功,宣帝作兩口榼,一口盛毒酒,一口盛善酒,自飲善酒,毒酒與金,金飲之即斃。景帝曰:「金名將,可大用,云何害之?」宣帝曰:「汝忘石瑞,馬後有牛乎?」元帝母夏侯妃與琅邪國小史姓牛私通,而生元帝。}}</ref>。
後に司馬懿によって[[毒#利用|毒殺]]されたといわれるが、真偽の程は定かではない。「玄石図」という[[石碑]]の表面に「馬の後を継ぐのは牛である」という言葉が浮かび上がっていた。そのため司馬懿は牛氏(牛金のこと)を深く恨み、毒が入った酒を牛金に飲ませて殺害した、と述べているとする。また、司馬懿の曾孫[[司馬覲]]の妃の'''夏侯光姫'''(字は'''銅環''')は、小役人の牛氏(牛金とは別人。[[孫盛]]『晋陽秋』によれば、名は'''牛欽'''とする)と密通して、[[東晋]]の初代皇帝になる[[元帝 (東晋)|司馬睿]]を生んだ、という話が『晋書』「元帝本紀」にある。


(削除) なお、この『晋書』より先に、 (削除ここまで)『[[魏書]]』((削除) 北魏 (削除ここまで)(削除) )の (削除ここまで)司馬叡(削除) 伝(司馬睿 (削除ここまで)(削除) こ (削除ここまで)(削除) 。)に (削除ここまで)、「(削除) 僭晋 (削除ここまで)の司馬叡(削除) 、 (削除ここまで)(削除) は (削除ここまで)景文,(削除) 晋の将、 (削除ここまで)牛金(削除) の (削除ここまで)子也。(削除) ([[司馬 (削除ここまで)(削除) ]]の (削除ここまで)(削除) の) (削除ここまで)(削除) 国の (削除ここまで)夏侯氏,字(削除) は (削除ここまで)銅環,金(削除) と (削除ここまで)姦通(削除) し、 (削除ここまで)(削除) に (削除ここまで)(削除) を生む (削除ここまで),因(削除) って (削除ここまで)司馬(削除) の姓を冒す」と記録されているが (削除ここまで)、牛金が司馬懿の死から25年後になる[[276年]]生まれの司馬睿の父親であるとは考えにくく、また『魏書』は[[南朝 (中国)|南朝]]と敵対していた[[北斉]]が編纂したものであ(削除) り (削除ここまで)真偽の程は(削除) 不明 (削除ここまで)(削除) ある (削除ここまで)(削除) 上記の通り牛金が (削除ここまで)司馬懿に毒殺(削除) されたことも (削除ここまで)(削除) 東晋の元帝が (削除ここまで)牛氏の(削除) 血筋を引いてい (削除ここまで)(削除) こと (削除ここまで)も確証はない。なお王(削除) 隱《晉 (削除ここまで)(削除) 》 (削除ここまで)によれば毒殺は公孫淵討伐後と記されて(削除) おり、事実だとす (削除ここまで)(削除) ば (削除ここまで)没年は239年付近となる。
『[[魏書]]』(追記) は司馬睿 (追記ここまで)(書(追記) 中では (追記ここまで)司馬叡(追記) )を「牛金 (追記ここまで)(追記) 子である」 (追記ここまで)(追記) し (追記ここまで)、「(追記) [[譙郡|譙国]] (追記ここまで)(追記) 夏侯氏は牛金と姦通し、司馬睿を生んだ」と記している<ref>{{Cite wikisource|wslink=魏書/卷96# (追記ここまで)司馬叡(追記) |title=『魏書』巻96司馬叡伝|wslanguage=zh|quote=僭晉司馬叡, (追記ここまで)字景文,(追記) 晉將 (追記ここまで)牛金子也。(追記) 初晉宣帝生大將軍、琅邪武王伷,伷生冗從僕射、琅邪恭王覲。 (追記ここまで)覲妃譙(追記) 國 (追記ここまで)夏侯氏,字銅環,(追記) 與 (追記ここまで)金姦通(追記) , (追記ここまで)(追記) 生 (追記ここまで)叡,因(追記) 冒姓 (追記ここまで)司馬(追記) ,仍為覲子。}}</ref>。しかし (追記ここまで)、牛金が司馬懿の死から25年後になる(追記) [[咸寧_(晋)|咸寧]]2年( (追記ここまで)[[276年]](追記) ) (追記ここまで)生まれの司馬睿の父親であるとは考えにくく、また『魏書』は[[南朝 (中国)|南朝]]と敵対していた[[北斉]]が編纂したものであ(追記) るため、 (追記ここまで)真偽の程は(追記) 定か (追記ここまで)(追記) はない (追記ここまで)(追記) また、先述した (追記ここまで)司馬懿に(追記) よる (追記ここまで)毒殺(追記) 説 (追記ここまで)(追記) 司馬睿を (追記ここまで)牛氏の(追記) 落胤とす (追記ここまで)(追記) 説 (追記ここまで)(追記) また (追記ここまで)確証はない。なお(追記) [[ (追記ここまで)(追記) 隠]]『晋 (追記ここまで)(追記) 』 (追記ここまで)によれば(追記) 、 (追記ここまで)毒殺は公孫淵討伐後と記されて(追記) いる<ref>{{Cite wikisource|wslink=太平御覽/0761#榼|title=『太平御覧』巻761器物部六|wslanguage=zh|quote=王隱《晉書》曰:宣帝既滅公孫淵還。作榼兩口,二種酒,持著馬上。先飲佳酒,塞口;而開毒酒與牛金,金飲而死。}}</ref>。そ (追記ここまで)(追記) を基に考えた場合、 (追記ここまで)没年は239年付近となる。


== (削除) 参考文献 (削除ここまで) ==
== (追記) 脚注 (追記ここまで) ==
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* <span style="font-size:90%;">『[[三国志 (歴史書)|三国志]]』魏書9曹仁伝</span>
=== 注釈 ===
* <span style="font-size:90%;">『[[晋書]]』巻1宣帝紀 卷6元帝紀</span>
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* <span style="font-size:90%;">『[[魏書]]』卷96僭晋司馬叡伝</span>
=== 出典 ===
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2024年4月13日 (土) 02:51時点における最新版

牛金

後将軍
出生 生年不詳
拼音 Niú Jīn
主君 曹操曹丕曹叡
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牛 金(ぎゅう きん、生没年不詳)は、中国 後漢末期から三国時代に仕えた軍人。

事跡

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三国志』に、曹仁に従って各地を転戦した記録がある。赤壁の戦い後、周瑜率いる孫権軍6千人が江陵に攻め込んで来た時、牛金は僅か300人の寡勢でこれを迎撃するよう、曹仁に派遣された。奮戦するも危うく討たれるところであったが、曹仁が救援に駆け付けたため、危機を乗り越えた。これが南郡樊城をも含む荊州北部の江陵攻防戦である。後に後将軍に出世している[1]

その後は司馬懿に従い、青龍3年(235年)には魏に侵攻した蜀漢馬岱を迎え撃ち、1000人余りの犠牲者を出させ撤退に追い込んでいる。また景初2年(238年)には、胡遵とともに司馬懿による公孫淵征討に従軍している(遼隧の戦い)[2]

孫盛『晋陽秋』および『晋書』によれば、後に司馬懿によって毒殺される。かつて、表面に「馬の後を継ぐのは牛である」という予言が刻まれた「玄石図」という石碑があった。そのため司馬懿は牛氏を憎悪し、鴆毒が入った酒を牛金に飲ませて殺害したという。また、司馬懿の曾孫司馬覲の妃である夏侯光姫(字は銅環[3] )は、小役人の牛氏[注釈 1] と密通して、東晋の初代皇帝となる司馬睿を生んだという[4] [5] 。また『宋書』によれば、牛金殺害後に司馬師が「牛金は名将であり、よく働くのに、何故あのように害したのですか」と問うと、司馬懿は「お前は石の予兆を忘れたのか、『馬の後に牛あり』と」と返しており、また小吏は琅邪国の人となっている[6]

魏書』は司馬睿(書中では司馬叡)を「牛金の子である」とし、「譙国の夏侯氏は牛金と姦通し、司馬睿を生んだ」と記している[7] 。しかし、牛金が司馬懿の死から25年後になる咸寧2年(276年)生まれの司馬睿の父親であるとは考えにくく、また『魏書』は南朝と敵対していた北斉が編纂したものであるため、真偽の程は定かではない。また、先述した司馬懿による毒殺説、司馬睿を牛氏の落胤とする説もまた確証はない。なお王隠『晋書』によれば、毒殺は公孫淵討伐後と記されている[8] 。それを基に考えた場合、没年は239年付近となる。

脚注

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注釈

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  1. ^ 太平御覧』に引く孫盛『晋陽秋』によれば、名は牛欽という[4]

出典

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  1. ^ 『三国志』巻9曹仁伝
  2. ^ 『晋書』巻1宣帝紀
  3. ^ 『晋書』巻31元夏侯太妃伝
  4. ^ a b ウィキソース出典  (中国語) 『太平御覧』巻98皇王部二十三 , ウィキソースより閲覧, "孫盛《晋陽秋》曰:[...]又初元石圖有牛繼馬後,故宣帝深忌牛氏,遂爲二榼,共一口以貯酒。帝先飲佳者,以毒者酖其將牛金,而恭王妃夏氏通小吏牛欽,而生元帝,亦有符云。" 
  5. ^ ウィキソース出典  (中国語) 『晋書』巻6元帝紀 , ウィキソースより閲覧, "初,《玄石圖》有「牛繼馬後」,故宣帝深忌牛氏,遂爲二榼,共一口,以貯酒焉,帝先飲佳者,而以毒酒鴆其將牛金。而恭王妃夏侯氏竟通小吏牛氏而生元帝,亦有符云。" 
  6. ^ ウィキソース出典  (中国語) 『宋書』巻27符瑞志上 , ウィキソースより閲覧, "先是,宣帝有寵將牛金,屢有功,宣帝作兩口榼,一口盛毒酒,一口盛善酒,自飲善酒,毒酒與金,金飲之即斃。景帝曰:「金名將,可大用,云何害之?」宣帝曰:「汝忘石瑞,馬後有牛乎?」元帝母夏侯妃與琅邪國小史姓牛私通,而生元帝。" 
  7. ^ ウィキソース出典  (中国語) 『魏書』巻96司馬叡伝 , ウィキソースより閲覧, "僭晉司馬叡,字景文,晉將牛金子也。初晉宣帝生大將軍、琅邪武王伷,伷生冗從僕射、琅邪恭王覲。覲妃譙國夏侯氏,字銅環,與金姦通,遂生叡,因冒姓司馬,仍為覲子。" 
  8. ^ ウィキソース出典  (中国語) 『太平御覧』巻761器物部六 , ウィキソースより閲覧, "王隱《晉書》曰:宣帝既滅公孫淵還。作榼兩口,二種酒,持著馬上。先飲佳酒,塞口;而開毒酒與牛金,金飲而死。" 

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