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東野 芳明(とうの よしあき、1930年 9月28日 - 2005年 11月19日)は、東京都出身の美術評論家である。多摩美術大学名誉教授。多摩美術大学の芸術学科の創設者でもある。
来歴・人物
都立一中、一高を経て、1954年東京大学文学部美学科卒[1] 。1967年多摩美術大学美術学部共通教育非常勤講師。1968年同大学助教授。1973年教授。1981年芸術学科を創設。1993年名誉教授。ヴィネチア・ビエンナーレの日本館コミッショナーや美術評論家連盟の会長などを歴任。
1954年、「パウル・クレー論」で美術出版社の美術評論新人賞を受賞し、美術評論家として活動を始めた。1956年、大岡信、飯島耕一らと共にシュルレアリスム研究会を設立。欧米に遊学し、抽象表現主義やネオ・ダダなどの海外の美術動向を日本に紹介した。ジャクソン・ポロック [2] とジャスパー・ジョーンズ [3] の紹介はとくによく知られている。1960年代、読売アンデパンダン展をめぐり、宮川淳と「反芸術」論争を行なった。1970年代はマルセル・デュシャンの研究に没頭し、瀧口修造らとともに『大ガラス(彼女の独身者たちによって裸にされた花嫁、さえも)』の東京版レプリカを制作した。
1967年から多摩美術大学で教鞭をとり、1981年に同大学の芸術学科を創設(1970年に設立予定だったが、学園紛争の影響で、1981年度からの学生募集となった)。「アート」を狭い枠で捉えず、ファッション・演劇・建築・音楽・文学などを横断するものと捉えていた。ゼミでは現代美術展「TAMA VIVANT」を開催し、多くのキュレーターを育てた。美術家となった教え子には海老塚耕一・古田裕らがいる。素潜りが趣味で、水中写真の撮影を数多く行ない、写真展も幾度か開催した。
1990年に脳梗塞で倒れ、闘病生活ののち、2005年11月19日に75歳で死去した。
美術雑誌「美術の窓」に、美術評論家の米倉守による東野芳明の評伝「アクアデミックの詩学」が連載されたが、米倉の死去により未完となった。
著書
- 『グロッタの画家』(美術出版社、1957年)
- 『現代美術-ポロック以後』(美術出版社、1960年)
- 『パスポートNO.328309』(三彩社、1962年)
- 『アメリカ 虚像培養国誌』(美術出版社、1968年)
- 『マルセル・デュシャン』(美術出版社、1977年)
- 『ジャスパー・ジョーンズ そして/あるいは』(美術出版社、1979年)
- 『裏切られた眼差 レオナルドからウォーホールへ』(朝日出版社、1980年)
- 『曖昧な水 レオナルド・アリス・ビートルズ』(現代企画室、1980年)
- 『つくり手たちとの時間』(岩波書店、1984年)
- 『クルマたちとの不思議な旅 新・自動車文化論/ずーっと、助手席人間』(ダイヤモンド社、1985年)
- 『ロビンソン夫人と現代美術』(美術出版社、1986年)
- 『クルマたちとの不思議な旅 新・自動車文化論/ずーっと、助手席人間』(中公文庫、1988年)
- 『マルセル・デュシャン「遺作論」以後』(美術出版社、1990年)
編書
- 『芸術のすすめ』(筑摩書房,1972年)
訳書
- ハロルド・ローゼンバーグ『新しいものの伝統』(紀伊國屋書店、1965年)
- サルバドール・ダリ『天才の日記』(二見書房、1971年)
- アンドレ・マッソン『世界の記憶』(新潮社「叢書創造の小径」、1977年)
- ジョン・ゴールディング『デュシャン 彼女の独身者たちによって裸にされた花嫁、さえも』(みすず書房「アート・イン・コンテクスト」、1981年)
- バックミンスター・フラー『宇宙船〈地球号〉操縦マニュアル』(西北社、1988年)
- ローレンス・アロウェイ『ジャスパー・ジョーンズ』(美術出版社、1990年)
脚注
関連項目