「崔承喜」の版間の差分
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崔承喜 | |
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崔承喜 | |
各種表記 | |
チョソングル: | 최승희 |
漢字: | 崔承喜 |
発音: | チェ・スンヒ |
日本語読み: | さいしょうき |
英語表記: | Choe Seung-hui |
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崔 承喜(朝鮮語:최승희、チェ・スンヒ、さい しょうき[1] 、1911年 11月24日 - 1969年 8月8日?)は、第二次世界大戦前、戦中に活動した舞踏家。戦後北朝鮮へ渡り政治家になる。兄は作家崔承一、夫は北朝鮮文化省次官を務めた政治家の安漠、娘は同じく舞踏家の安聖姫。 身長170cm、体重55kg。
経歴
京城(現在のソウル)で裕福な両班の家庭に、4人兄弟の末っ子として生まれた。しかし家運が傾き、一気に貧しくなり、ご飯もまともに食べることができないまま学校に通った[2] 。幼いころに踊りの才能を認められ、ソウル公演に来ていたモダンダンスの石井漠に師事し、1926年に内地(日本本土)に渡った[3] [4] 。後に独自のスタイルを築き、日本はもとよりヨーロッパ、アメリカでも好評を博した。化粧品や百貨店の広告にモデルとして採用され、雑誌の企画で日本を代表する美人の一人に選ばれるなど、当所の代表的なファッションリーダーであった。ピカソやジャン・コクトー、川端康成等多くの文化人にも支持された。1935年に独立して「崔承喜舞踊研究所」を設立、夫がマネージャーを務めた。1936年にはタイヘイレコード、満州国のキリンレコード、日本のコロムビアレコードから『イタリアの庭』というアルバムを出している。
戦時中は日本人として支那戦線の日本軍へ慰問団の一員として慰問活動などを行っていた。戦後は夫と共に北朝鮮に移り、舞踊研究所を設立する。1948年8月に最高人民会議の代議員に当選[5] 。1951年、周恩来の支持で北京に舞踊訓練班を設立し、多くの生徒を指導する。 しかし1967年「ブルジョワおよび修正主義分子」とし粛清され[6] 、同年以降夫の安漠・娘の安聖姫とともに消息不明となった[7] 。ところが2003年2月9日に、1969年に亡くなったこと、遺体が愛国烈士陵に葬られ墓碑に「舞踊家同盟中央委員会委員長、人民俳優」と刻まれていることが公式筋より公表され、「人民俳優 」として名誉回復されたことが明らかとなった[8] 。しかし、失脚理由や死因は公式発表されておらず、公式発表の没年月日ですら正確な物なのかどうか、未だに疑問がもたれている[9] 。
2008年 4月29日に韓国の市民団体民族問題研究所、ならびにその傘下の親日人名辞典編纂委員会より発表された親日人名辞典の第2回リストに名前が掲載されており、彼らによって親日派であると認定されている[10] 。韓国左派の基準で「明白な親日舞踊家」とされる崔が北朝鮮に渡って20年以上も活躍していたため、北朝鮮が戦後に「親日」を全て処罰したとの主張は幻想だと指摘されている。1956年の8月宗派事件の時に反対派が金日成総書記に向かって「土窟の中の人民が飢えと病魔に苦しむ経済の現実」に加えて、「親日派重用」を批判したという記録や日本統治時代の技術者を独立運動家以上に優遇したという証言も記録されている。そのため、朝鮮日報は韓国内の北朝鮮政権支持者の信じる「親日派を徹底的に排除した」のは嘘と指摘している[11] 。
人物
非常に勝気で、男勝りな性格でも知られていた[12] 。
承喜は音楽にも造詣が深く、特にリズム感覚が非常に敏感で優れていた。舞踊の練習中に伴奏の伽耶琴奏者がミスをすると、踊るのを止め、演奏者にミスの部分を指摘するほどだったという。そのため彼女を独善的だと批判する者もいた。
あるインタビューで、「ファンレターは適当に見て投げ捨てる」と平気で言ったり、当時の公演観覧マナーに慣れていなかった朝鮮人の観客が、公演観覧の間にうるさくすると、踊りを中断して、静かにするよう怒鳴ったなどの逸話がある。
金銭感覚
承喜は舞踊家として成功した後、金銭的な問題においては「ケチ」という言葉を聞くほどお金に非常に細かく、これにより兄弟たちの間でもお金の問題で揉め事がよく起こったという。
その半面、承喜本人は過度な贅沢をしており、北朝鮮へ渡った後も治らなかったという。夫や周囲の人間はその癖を自制するよう何度も忠告はしたが、本人は一切聞く耳を持たなかった。
承喜は本人の実力と、その名声に比べ、人間性は日本植民地時代当時や、解放後に渡った北朝鮮でも、非常に独善的であると多くの批判を受けた。
娘・安聖姫(アン・ソンヒ)
夫の安漠との間に生まれた娘、安聖姫(안성희)もソ連でバレエ 留学の経験を得て、北朝鮮でダンサーや振付家として活動した(韓国語版より)。
母親の崔承喜が粛清されたとき、安聖姫が自分だけで生き残るために母親を告発し、自我批判を強要したという噂があったが、これはあくまで噂で根拠もない作り話とされる[13] 。
ただし、崔承喜と安聖姫の母娘の間に少しの葛藤があったかもしれないが、モスクワでバレエ留学を行ってきた安聖姫は西洋舞踊に堪能し、崔承喜はそのような娘をうまくいかず「朝鮮人は朝鮮舞踊を踊らなければならない」と、いつも娘によく言われたが、ソ連派幹部たちはモスクワ留学を行ってきた安聖姫を掲げ、母女間の葛藤を民族派VS現代派の対立構図に追い込もうとする意図で母女間の葛藤をさらに煽り、二人の母女を切り離して置こうとしたという[14] 。
写真
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崔承喜(右)1946年ソウルにて
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1936年ベルリンオリンピック優勝直後の孫基禎と崔承喜
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1931年に結婚した夫の安漠(1910年生、早稲田大学卒、本名・安承弼)と娘の聖姫(1932年生、日本名・勝子)と。のちに息子の秉建(1944年生)を儲けた。
日本統治時代の評価
- 石井漠「崔承喜の肉体というものはその均整の取れた点で、確かに日本人としては珍しく立派なものである。彼女を一挙手一投足は、通常に人間の二倍の効果を上げることができる」。
- 川端康成「私は何の躊躇もなく崔承喜が日本一であると答えたのであった。そして私にそうさせるに足るものを崔承喜は疑いもなく持っている。他の誰を日本一と言うよりも崔承喜を日本一と言いやすい。」
- ニューヨークタイムズ「崔承喜には日本の色、中国の身振り、韓国の線が一緒に流れている」
- 1937年、1938年と立て続けに「Sai Shoki」の名でニューヨーク公演を行ない、1939年にはアメリカン・バレエ、マーサ・グラハムとともにダンスフェスティバルに出演した[15] [16] 。滞米中は、日本に協力的であるとして、現地の反日同胞から批判、嫌がらせを受け、在米反日派による排日マーク販売を崔の仕業とする噂が日本で立つなど難しい立場に立たされた[17] 。
出演映画
- 半島の舞姫(1936年、新興キネマ製作、監督今日出海)[18] 。
- 大金剛の譜(1938年、日活製作)
- 伝説の舞姫 崔承喜 金梅子が追う民族の心(2000年) - 崔承喜の生涯を追ったドキュメンタリー映画。
著書
脚注
- ^ 日本語読みでさい・しょうきとして活動していた。
- ^ 植民地の悲しみ、踊りで表現した崔承喜 『花火』東亜日報、3. 13, 2007
- ^ 萩原遼『ソウルと平壌』大月書店、1989年、p144、ISBN 4-272-21054-8 c0031
- ^ 石井漠と崔承喜 李香蘭も習ったモダンダンス産経新聞、2017年1月22日
- ^ 霞関会 編『現代朝鮮人名辞典 1962年版』世界ジャーナル社、1962年8月1日、305頁。NDLJP:2973328/212。
- ^ 『朝鮮労働党略史』朝鮮労働党出版社、1979年、p600
- ^ 萩原遼『ソウルと平壌』大月書店、1989年、p145、ISBN 4-272-21054-8 c0031
- ^ 북한 무용가 최승희 등 문화 예술인 숙청인물 22명 재평가 (韓国語)(MBCニュースデスク、2003年2月10日)
- ^ 崔承喜の姪の証言によると1975年に下放先で肝臓ガンにより死去という。立教大学アジア研究所の研究報告
- ^ "親日人名辞典、安益泰・崔承喜らも親日派として収録". 東亜日報. (2008年4月30日). http://japan.donga.com/srv/service.php3?biid=2008043051818 2009年11月9日閲覧。
- ^ [1](朝鮮日報日本語版) 【コラム】北朝鮮の体制保証と「韓国並みの繁栄」は同時に可能なのか
- ^ "民団新聞". www.mindan.org. 2022年7月13日閲覧。
- ^ "안성희 - 나무위키". namu.wiki. 2023年10月26日閲覧。
- ^ "안성희 - 나무위키". namu.wiki. 2023年10月26日閲覧。
- ^ SAI SHOKI IS SEEN IN KOREAN DANCES; Young Oriental Artist Offers Her Second Program HereThe New York Times, Nov. 7, 1938
- ^ THE DANCE: HOLIDAY FESTIVAL SEASON; American Ballet Caravan, Martha Graham, Carmalita Maracci And Sai Shoki Unite for Series at the St. JamesThe New York Times, Dec. 17, 1939
- ^ 『東アジアにおけるトランスナショナルな文化の伝播・交流 メディアを中心に』延広真治、梁蘊嫻、石川隆男、佐藤卓己、山本陽史、李賢晙、廖秀娟、川瀬健一、横山詔一、林立萍、林淑璋、吳翠華、中澤一亮、王旭、勝倉仁、国立台湾大学出版中心、2016、p154
- ^ 半島の舞姫新興映画「半島の舞姫」
関連項目
- 玉流館 - 旧崔承喜舞踊研究所建物を使用した冷麺専門店。
- 京畿道 (日本統治時代)
- 創氏改名
- 永田絃次郎 - 本名「金永吉」。戦前は著名なテノール歌手であったが、帰国事業に応じて家族を引き連れて北朝鮮に渡り、崔同様に家族もろとも行方不明となった。
- 梅蘭芳 - 崔に中国古典舞踊を教えた
関連書籍
- 炎は闇の彼方に―伝説の舞姫・崔承喜(金賛汀・著、日本放送出版協会)ISBN 4140807091
- さすらいの舞姫 北の闇に消えた伝説のバレリーナ・崔承喜(西木正明著、光文社、2010年)ISBN 4334927203
- 世紀の美人舞踏家・崔承喜(編著者:高嶋雄三郎・鄭昞浩 翻訳:金容権、エムティ出版)ISBN4896144333