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| 主君 = [[聖武天皇]]
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'''秦 島麻呂'''(はた の しままろ)は、[[奈良時代]]の[[貴族]]。[[カバネ|氏姓]]は秦下のち太秦[[キミ (カバネ)|公]]、太秦公[[忌寸]](削除) 。[[秦河勝]]の曾孫で、[[葛野郡]][[大領]]・秦牛万呂の子 (削除ここまで)。[[官位]]は[[従四位|従四位下]]・[[長門国#国司|長門守]]。
'''秦 島麻呂'''(はた の しままろ)は、[[奈良時代]]の[[貴族]]。[[カバネ|氏姓]]は秦下のち太秦[[キミ (カバネ)|公]]、太秦公[[忌寸]]。[[官位]]は[[従四位|従四位下]]・[[長門国#国司|長門守]]。


== 経歴 ==
== 経歴 ==

2023年10月23日 (月) 07:47時点における最新版

 
秦島麻呂(太秦嶋麻呂)
時代 奈良時代
生誕 不明
死没 天平19年6月4日(747年 7月15日)
官位 従四位下長門守
主君 聖武天皇
氏族 秦下→太秦 忌寸
兄弟 弁正島麻呂
藤原小黒麻呂室(他)
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秦 島麻呂(はた の しままろ)は、奈良時代貴族氏姓は秦下のち太秦、太秦公忌寸官位従四位下長門守

経歴

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聖武朝天平12年(740年)平城京から恭仁宮遷都されると、天平14年(742年)造宮録として恭仁京の垣を築造したことを賞されて、正八位下から十三階昇進となる従四位下に叙せられて、太秦公姓の賜姓を受けると共に、100貫・100疋・200端・綿200屯を与えられた[1] 。のち、造宮輔に昇格し、天平17年(745年)恭仁宮に派遣されて掃除を行っている[2]

天平19年(747年)3月に長門守に任ぜられるが、同年6月4日卒去。最終官位は長門国守従四位下。

官歴

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注記のないものは『続日本紀』による。

系譜

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脚注

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  1. ^ 『続日本紀』天平14年8月5日条
  2. ^ 『続日本紀』天平17年5月3日条
  3. ^ 『大日本古文書』(編年文書)24巻84頁
  4. ^ 『公卿補任』

参考文献

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