コンテンツにスキップ
Wikipedia

「後部王起」の版間の差分

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
削除された内容 追加された内容
2行目: 2行目:


== 出自 ==
== 出自 ==
「後部」は[[高句麗]]の五部の一つで、「絶奴部」・「北部」と同じものを指している。「後部王」のほかに、ただの「後部」、あるいは「後部高」とするものなども見られる。『[[新撰姓氏録]]』「右京諸蕃」には、後部王氏は高麗国の長王周の後であるとしており、『[[続日本紀]]』には、[[元明天皇|元明朝]]の[[和銅]]5年正月の[[従六位|従六位下]]の後部王同が[[従五位|従五位下]]に叙爵された記事<ref>『続日本紀』和銅5年正月19日条</ref>のほか、天平勝宝6年([[754年]])正月に、[[正六位|正六位上]]から従五位下に叙爵された後部王吉のことや<ref>『続日本紀』天平勝宝6年正月16日条</ref>、天平宝字5年([[761年]])3月の後部王安成ら二名が高里連の氏姓を授与されたという記事<ref>『続日本紀』天平宝字5年3月15日条</ref>がある。
「後部」は[[高句麗]]の五部の一つで、「絶奴部」・「北部」と同じものを指している。「後部王」のほかに、ただの「後部」、あるいは「後部高」とするものなども見られる。『[[新撰姓氏録]]』「右京諸蕃」には、後部王氏は(追記) [[ (追記ここまで)高麗国(追記) ]] (追記ここまで)の長王周の後であるとしており、『[[続日本紀]]』には、[[元明天皇|元明朝]]の[[和銅]]5年正月の[[従六位|従六位下]]の後部王同が[[従五位|従五位下]]に叙爵された記事<ref>『続日本紀』和銅5年正月19日条</ref>のほか、天平勝宝6年([[754年]])正月に、[[正六位|正六位上]]から従五位下に叙爵された後部王吉のことや<ref>『続日本紀』天平勝宝6年正月16日条</ref>、天平宝字5年([[761年]])3月の後部王安成ら二名が高里連の氏姓を授与されたという記事<ref>『続日本紀』天平宝字5年3月15日条</ref>がある。


== 経歴 ==
== 経歴 ==

2023年9月22日 (金) 11:40時点における最新版

後部王 起(こうほうおう き)は奈良時代官人・武人。はなし。官位右衛士佐 従五位下

出自

[編集 ]

「後部」は高句麗の五部の一つで、「絶奴部」・「北部」と同じものを指している。「後部王」のほかに、ただの「後部」、あるいは「後部高」とするものなども見られる。『新撰姓氏録』「右京諸蕃」には、後部王氏は高麗国の長王周の後であるとしており、『続日本紀』には、元明朝和銅5年正月の従六位下の後部王同が従五位下に叙爵された記事[1] のほか、天平勝宝6年(754年)正月に、正六位上から従五位下に叙爵された後部王吉のことや[2] 、天平宝字5年(761年)3月の後部王安成ら二名が高里連の氏姓を授与されたという記事[3] がある。

経歴

[編集 ]

聖武朝神亀元年(724年)3月、陸奥大掾 佐伯児屋麻呂の殺害より端を発する海道の蝦夷の反乱に際し[4] 、持節大将軍藤原宇合・副将軍高橋安麻呂の配下で軍功をあげ、翌2年(725年)閏正月の天皇の詔により、紀牟良自田辺難波坂本宇頭麻佐丸子大国らとともに勳六等・田2町を授けられている。この時の位階従七位下 [5]

その後、正六位上に昇進しており、さらに神亀6年(729年)3月、 従五位下に昇叙され、天平4年(732年)10月、右衛士佐に任命されている。

官歴

[編集 ]

続日本紀』による。

脚注

[編集 ]
  1. ^ 『続日本紀』和銅5年正月19日条
  2. ^ 『続日本紀』天平勝宝6年正月16日条
  3. ^ 『続日本紀』天平宝字5年3月15日条
  4. ^ 『続日本紀』神亀元年3月25日条
  5. ^ 『続日本紀』神亀2年閏正月22日条

参考文献

[編集 ]

関連項目

[編集 ]

AltStyle によって変換されたページ (->オリジナル) /