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== 出自 ==
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「後部」は[[高句麗]]の五部の一つで、「絶奴部」・「北部」と同じものを指している。「後部王」のほかに、ただの「後部」、あるいは「後部高」とするものなども見られる。『[[新撰姓氏録]]』「右京諸蕃」には、後部王氏は高麗国の長王周の後であるとしており、『[[続日本紀]]』には、[[元明天皇|元明朝]]の[[和銅]]5年正月の[[従六位|従六位下]]の後部王同が[[従五位|従五位下]]に叙爵された記事<ref>『続日本紀』和銅5年正月19日条</ref>のほか、天平勝宝6年([[754年]])正月に、[[正六位|正六位上]]から従五位下に叙爵された後部王吉のことや<ref>『続日本紀』天平勝宝6年正月16日条</ref>、天平宝字5年([[761年]])3月の後部王安成ら二名が高里連の氏姓を授与されたという記事<ref>『続日本紀』天平宝字5年3月15日条</ref>がある。
「後部」は[[高句麗]]の五部の一つで、「絶奴部」・「北部」と同じものを指している。「後部王」のほかに、ただの「後部」、あるいは「後部高」とするものなども見られる。『[[新撰姓氏録]]』「右京諸蕃」には、後部王氏は(追記) [[ (追記ここまで)高麗国(追記) ]] (追記ここまで)の長王周の後であるとしており、『[[続日本紀]]』には、[[元明天皇|元明朝]]の[[和銅]]5年正月の[[従六位|従六位下]]の後部王同が[[従五位|従五位下]]に叙爵された記事<ref>『続日本紀』和銅5年正月19日条</ref>のほか、天平勝宝6年([[754年]])正月に、[[正六位|正六位上]]から従五位下に叙爵された後部王吉のことや<ref>『続日本紀』天平勝宝6年正月16日条</ref>、天平宝字5年([[761年]])3月の後部王安成ら二名が高里連の氏姓を授与されたという記事<ref>『続日本紀』天平宝字5年3月15日条</ref>がある。
== 経歴 ==
== 経歴 ==
2023年9月22日 (金) 11:40時点における最新版
後部王 起(こうほうおう き)は奈良時代の官人・武人。姓はなし。官位は右衛士佐・外 従五位下。
出自
[編集 ]「後部」は高句麗の五部の一つで、「絶奴部」・「北部」と同じものを指している。「後部王」のほかに、ただの「後部」、あるいは「後部高」とするものなども見られる。『新撰姓氏録』「右京諸蕃」には、後部王氏は高麗国の長王周の後であるとしており、『続日本紀』には、元明朝の和銅5年正月の従六位下の後部王同が従五位下に叙爵された記事[1] のほか、天平勝宝6年(754年)正月に、正六位上から従五位下に叙爵された後部王吉のことや[2] 、天平宝字5年(761年)3月の後部王安成ら二名が高里連の氏姓を授与されたという記事[3] がある。
経歴
[編集 ]聖武朝の神亀元年(724年)3月、陸奥大掾 佐伯児屋麻呂の殺害より端を発する海道の蝦夷の反乱に際し[4] 、持節大将軍藤原宇合・副将軍高橋安麻呂の配下で軍功をあげ、翌2年(725年)閏正月の天皇の詔により、紀牟良自・田辺難波・坂本宇頭麻佐・丸子大国らとともに勳六等・田2町を授けられている。この時の位階は従七位下 [5] 。
その後、正六位上に昇進しており、さらに神亀6年(729年)3月、外 従五位下に昇叙され、天平4年(732年)10月、右衛士佐に任命されている。
官歴
[編集 ]『続日本紀』による。
脚注
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参考文献
[編集 ]- 『続日本紀』1 新日本古典文学大系12岩波書店、1989年
- 『続日本紀』2 新日本古典文学大系13岩波書店、1990年
- 『続日本紀』3 新日本古典文学大系14岩波書店、1992年
- 宇治谷孟『続日本紀 (上)・(中)』講談社学術文庫、1992年
- 『日本古代人名辞典』3 - p807、竹内理三・山田英雄・平野邦雄編、吉川弘文館、1961年
関連項目
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